偉大なる音楽家ジョン・レノン No.5

  • Jun 06, 2012
  • Pankie Koba

5回のハンブルク遠征の様々なエピソードと事件をお話します。

1960年、当時のマネージャー、アラン・ウィリアムズがハンブルクの箱バンの仕事を取ってきました。

ビートルズが最初に出演したインドラ・クラブは、カイザーケラーが盛況のため、新たにストリップ小屋を改装してオープンしたライブハウスでした。

ただ、近所から騒音の苦情がたくさん来るようになり、閉店。カイザーケラーに出演するようになります。

そこには、交替で出演するバンド、ロリー・ストーム&ハリケーンズがいました。

ドラマーはあのリンゴ・スターです。同じくリバプール出身なので、交流を深めていきます。

競演11日後にして、ジョン、ポール、ジョージ、ハリケーンズからリンゴとウォーリー(ベース)というメンバーで「サマータイム」を録音し、シングル盤を9枚作りました。

おとなしい演奏をマネージャーのアランが客席から「メイク・ア・ショー、ボーイズ」と怒鳴ると、他のお客がドイツ語風に「マック・シャウ」と野次を飛ばすようになりました。

それから、破れかぶれとも言えるくらい、ジョンを中心に派手に演りまくりました。

10月半ばまでの出演契約も12月末まで延長されます。

前回書いた、クラウス・フォアマンとアストリット・キルヒヘア、それにアストリットと同じく写真家のアシスタントをしてたユンゲル・フォルマーもカイザーケラーの常連になり、黒の革の上下や襟なしジャケットなど、デビュー前のビートルズスタイルに大きな影響を与え、アストリットは、ビートルズメンバーの美しいポートレートを歴史に残します。

10月末、カイザーケラーよりも大きなライブスポット、トップ・テン・クラブがオープンし、ここにロンドンから来たトニー・シェリダンが出演してました。

ビートルズは彼のファンだったので、よく見にいくようになり、バックバンドをつとめることもありました。これは契約違反だったので、カイザーケラーのオーナーは腹を立て、11月末までの契約になってしまいます。

ジョージは深夜労働ができない18歳未満であることが警察に知れ、(オーナーが腹いせに通報したらしい)ジョージは国外追放になり、残る10日間は4人で演奏。

ある日ポールとピートは寝泊りしてたバンビ映画館のスクリーン裏で、コンドームを壁に刺して火をつけて遊んでたら、放火として通報され留置場で一晩過ごし、揚句に強制送還処分でロンドンに。

追ってジョンも列車を乗り継いで帰国。みんな落ち込んだ気分でリバプールに戻りました。

1961年、2度目のハンブルクは、ビートルズ(主にジョン)が直接トップ・テン・クラブと契約を取り交わしたものでした。

ポールとピートの強制送還の費用を次の出演料から差し引く契約で、マネージャーのアランには仲介料を払わないという手紙をスチュが書き、当然の結果アランとの関係は切れました。

スチュはすでにハンブルクの芸術大学に入学しており、時折演奏に参加する程度でした。ある日ポールは自分のギターが壊れたのをきっかけに、ジョンからの頼みを聞き入れ、安価だったヘフナーのベースを買い、正式にベーシストとなります。

スチュは、トニー・シェリダンのバックとしてビートルズがポリドールでレコーディングする直前にビートルズから脱退します。

録音時には、スチュは友人として見学してました。

この年に、ユンゲル・フォルマーが撮影した写真が、ジョンのソロアルバム「ロックン・ロール」(75年)のジャケットに使われます。

この時期、アストリットがスチュの髪を、フランスの実存主義者風に前髪をおろした型にカットしました。

ジョンたちはおかしな髪型を笑ってましたが、暫くして自分たちの意志でその髪型に変えます。これがあのビートルズ・カットのきっかけでした。

1962年4月のハンブルク遠征は、前年にマネージャーを買って出たブライアン・エプスタインが仕切りました。

カイザーケラーやトップ・テン・クラブの用心棒だった男が4月13日に開店させた「スター・クラブ」のこけら落しとして呼ばれたのです。

ブライアンの交渉で、ギャラも労働条件も良くなり、マンチェスターからハンブルクまで飛行機で行けるようになりました。

でも残念なことにその凱旋したメンバーをスチュは見ることなく、4月10日に脳溢血で亡くなります。

ブライアンはスター・クラブの初日を見届けた後すぐに帰国し、レコードデビューの売り込みをかけ、ようやくEMIとレコーディング契約を取り付けました。ビートルズは5月31日の出演を終えると、その4日後にアビイ・ロードのスタジオに足を踏み入れます。

1962年10月に「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビュー。でも数か月前から決まってた11月1日からのハンブルク遠征に出発。その前に髪型を頑なに変えなかったピートをやめさせ、リンゴを正式ドラマーとして迎え入れます。

11月14日までの2週間で出演49時間。この2週間は、リバプールで同じショーに出演したことのあるリトル・リチャードと毎日競演。

余談ですが、この頃リチャードのバックでキーボードを弾いていたのが、69年のゲット・バック・セッションで一緒に演奏するビリー・プレストン。

スター・クラブの楽屋で親しくなった友人です。

1962年のクリスマスシーズンが最後のハンブルク遠征となります。12月18日から31日まで。休みは25日のクリスマスのみ。場所は同じくスター・クラブ。13日間で42時間の出演と、相変わらずハードな条件でした。

これで、ハンブルク遠征は終了。3年間にハンブルクで演奏した日数はなんと274日。休みはたったの2日。(キリスト教の祭日だったため)

次にビートルズがハンブルクを訪れるのは1966年。その時はワールドツアーの一環で、5,600人収容のホールを超満員にし、2回の公演を行いました。

自分たちを鍛え、育ててくれたハンブルク、そしてクラウス、アストリット、ユルゲン、1962年に亡くなったスチュというかけがえのない友人たちへの恩返しがここでようやくできました。

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