1967年はジョンにとって、これからの音楽的世界観そして人生観までも決定づける重大な年になりました。
1966年の「リボルバー」の作品群(特に「トゥモロー・ネバー・ノウズ」)そして1966年秋、映画「ジョン・レノンの僕の戦争」の撮影中にスペインのアルメニアで書いた「ストロベリー・フィールズ・フォー・エバー」にも顕著に感じられる幻想的美学、反逆的美学そして東洋的美学がジョンの個性として確立した年と言えるからです。
それは、マリファナやLSDの常習と並行してオノ・ヨーコの生き方・考え方がジョンに強い影響を与え始めたからだと思います。
この年に発売された2枚のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」と「マジカル・ミステリー・ツアー」に収録されたジョンの曲を聴けばわかると思います。
今回はビートルズの歴史的名盤として名高い1967年6月1日発売の「サージェント・ペパー」の収録曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」と「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」についてお話したいと思います。
その前にこのアルバムについての私見を話します。このアルバムはポールが主体となって企画・制作されたもので、ポールのショウ的構成にはあまり気乗りしてなかったジョンですが、最終的に後のポップ・ミュージックに多大な影響を与えたのは前筆の2曲でした。
このアルバムはポップス界では画期的な構成であるアルバム全体をひとつのコンサートに見立てたものにしています。このアイデアはポールが考えたものです。これ以前のポップス系アルバムはレコード会社が考案した、ヒット・ソングからさらに収益を上げるための手段にすぎず、ヒット・ソングと一緒に他の10曲程度を一緒にした寄せ集め的なものが一般的で、全体の構成や脈絡などありませんでした。
「サージェント・ペパー」はオーケストラのチューニングから始まり、コンサートを待つ観客のざわめき、そしてハードなロック・サウンドが鳴り響きバンドが紹介される。「どうぞショウをお楽しみください。」というくだりとともにコンサートが開幕となり、アルバムの終わりには、この曲の再演でコンサートの終わりが告げられ、アンコール曲も入ります。(このアンコール曲でジョンの大逆転勝利となるので、私にとっては小気味いいものがあります。)
また、ジャケット・デザインのアイデアもポールです。歴史的大スターたちとともに、くすんだ色の服を着た蝋人形の自分たちと、その隣に明るい色の制服を着て立ってるビートルズ。公園の花壇のすぐ隣にあるステージで演奏を終えたばかりの楽団が大勢の観客に取り囲まれてるという設定らしいですが、確かにビートルズの画期的な変質を端的に表してます。でもアルバム全体の構成企画も、タイトル曲も、ジャケット・デザインも結局はジョンの作った2曲(「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」はポールの部分もありますが。)の最高のお膳立てになってるという気がしてなりません。
ですからサイケデリック・ミュージックの象徴となり、アメリカのヒッピー・ムーブメントのサウンド・トラックにもなったこのアルバムの根幹をなす曲はというと上記の2曲でしょう。
では初めにA面3曲目の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」について話したいと思います。
息子のジュリアンが4歳の時、同級生のルーシーという女の子を描いた絵を持って帰った日、いろんな色で爆発してる星を背景にルーシーの顔を描いた絵を見て、ジュリアンにその絵の題を尋ねたところ、「ダイヤモンドと空に浮かぶルーシーだよ、パパ。」と答えたらしい。曲のタイトルの頭文字を並べるとLSDになるというそんな無粋な考えしかできない輩が教育上よくないという理由で放送禁止にしたりしました。どうしてジョンの洒落た言葉遊びだと理解できなかったんでしょう。それこそ大人げないですね。
ジョンが愛読していたルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」のイメージを彷彿させる言葉、「川に浮かんだ小舟」「黄色と緑のセロファンの花の下」「新聞紙のタクシー」「岸辺のタンジェリンの木」「ママレード色の空」そして「万華鏡の瞳をした少女」。ファンタジックな絵本を思わせる詩にゆっくり回転するかのような3拍子のメロディー。
イントロはリフのメロディ・ラインをすべて凝縮したフレーズでまるでお経のようです。空(天)に向かって昇っていくようなイメージを、チェレスタに似たベルのような音を出す特別のオルガンストップが付いたハモンド・オルガンで表現してます。
ヴォーカル音にもフェイザーをかけてその雰囲気を醸し出してます。そしてサビはガラっと雰囲気を変えてハードなロック調に変身!この世界観をギター・ベース・オルガン・ドラムスそして3人のヴォーカルだけで表現してしまうとはただただ脱帽です。
余談ですが、この曲のモデルとなったジュリアンの保育園時代の友人ルーシー・ボーデンさん(旧姓:ルーシー・オドネル)は2009年9月29日に46歳で亡くなりました。
次にこのアルバムのラストを飾る曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」です。
「人生の中のある一日」という哲学的なタイトルですが、ジョンとポールは日常の出来事をさらっと歌っています。
どこかこの時代にフランスで流行してた実存主義を感じさせます。
ジョンが読んだ新聞のふたつの記事が歌詞になっています。ひとつはギネス家の跡取りのタラ・ブラウンが1966年12月18日愛車のロータス・エランで赤信号を突っ切り、サウス・ケンジントンの交差点に停車していたVANに時速100マイルで追突したという記事。享年21歳。もう一つの記事は、ランカシャー州ブラックバーンの道路には4000個の穴が開いていて早急に埋めないとならないという記事。ジョンは、アルバート・ホール(ロンドンの有名なコンサート会場)を満員にするのにいくつ穴が必要かはわかっているというウィットに富んだ言い方も交えた歌詞にしてます。このふたつの間をポールが作った歌詞がうまく繋いでます。
朝寝過ごして遅刻しそうだったのでコーヒーだけ飲んでバスの2階に飛び乗って煙草をふかしたら夢の世界に入ったという他愛もない歌詞ですが、ジョンの世界観に見事に溶け込んでます。ポールは別の曲に使おうと温めてた歌詞らしいですが、この曲を完成させるために惜しみなく提供するところは、ジョンに対する尊敬と友情を感じます。またジョンが滅法気に入ったフレーズがポールの作った「I’d love turn you on」です。「あなたを目覚めさせたい」というような教科書的な陳腐な訳になってますが、もう少し官能的な訳にしてほしいものです。具体的には書きませんが・・・
この曲のコード進行ですが、G-Bm7-Em-Em7-C-Cmaj7-Am9でルート音がG-F-E-D-C-B-Aと下がっていきます。この進行は後のポップ・ミュージックにたくさん使われるようになりました。因みにこの年プロコル・ハルムが5月に発売したデビューシングル「青い影」も出だしはまったく同じコード進行です。もしかしたら、この年ビートルズと交流があったか、元々仲がよかったのかもしれませんね。
曲の構成に戻りますが、ポールの作った部分はEに転調し、軽快なリズムに変わります。そしてまた元のリフに戻り、いよいよクライマックスである最後の24小節に突入します。ここでは41人のオーケストラの楽器が出せる最低音から始まり、Eメジャーコードに一番近い各楽器の最高音まで無秩序でバラバラに昇っていきます。ジョンが指示したのは、この世の終わりを感じさせるような音まで上げてほしいということでしたが、この世の終わりではなく、天国まで昇りきった感じがします。
ポールは自分がやりたかったオーケストラゼーションがこの曲で初めてできたと思います。今までジョンとポールの共作についてはあまり書きませんでしたが、ジョンとポールの友情と才能が見事に融合された曲だと思います。共作の中では最高傑作と言えるでしょう。
ただ、残念なことはジョンの生の声が聴けなくなったことです。この曲でもテープ・エコーという新しい試みで小刻みに震えるヴォーカル・サウンドを作りました。(ジョンは自分の声が嫌いだったらしいですが、個人的にはツイスト・アンド・シャウトを歌ったロックン・ローラーのジョンが最高に好きです。ソロアルバムで再び聴くことができますが・・・)
そしてこの名曲もBBCは放送禁止処分にしました。
マリファナ(ポールの歌詞)と麻薬中毒患者の腕に残る注射針の跡(4000個の穴)を連想させると解釈したからだそうです。
想像力が欠如した保守的な大人たちが多かったんでしょうね。
ですから、上記の2曲のおかげで「サージェント・ペパー」はフラワー・ムーブメントのバイブルともいうべきアルバムになったのです。
皮肉なものですね。
この後、ジョンにとって最もショッキングな出来事が起こります。