偉大なる音楽家ジョン・レノン No.15

  • Apr 30, 2014
  • Pankie Koba

1968年2月15日、マハリシのもとで超越瞑想を長期的に行うために、妻のシンシア、ジョージ夫妻とともにインドのリシケシュへ出発。インド滞在中に Dear Prudence や Julia を始め、たくさんの曲を書きました。

また、マハリシの悪い噂を確かめる目的もあったようで、実際マハリシに幻滅したジョンはシンシア、ジョージ夫妻と一緒に4月12日、予定より1ヶ月も早くインドを離れます。荷造りをしている時に書いた Sexy Sadie でマハリシに対する幻滅と怒りがわかります。

インド滞在中、ヨーコと頻繁に手紙のやりとりをしていたジョンは、「アップル・パブリシティ」設立記者会見の終了後すぐに、ウェイブリッジの自宅にヨーコを招き、一緒に UNFINISHED MUSIC No.1:TWO VIRGINS を制作。レコーディングが終了した夜明けに二人は結ばれました。5月20日のことです。

そして5月30日から、通称ホワイトアルバムと呼ばれる The Beatles のレコーディングが開始されます。完成まで全アルバム中、最長の約5ヶ月半という時間がかかりました。

このアルバムの中でヨーコは、The Continuing Story Of bungalow Bill 、 Revolution9 、 Julia などのレコーデイングに参加。

意見や批判まで述べるようになったヨーコの存在をジョンは一心同体であると他のメンバーに説明しましたが、もちろんみんな閉口。ガールフレンドであれ妻であれスタジオには決して連れてこないというグループの固い不文律をジョンは破ってしまったわけです。

あろうことか、ヨーコはスタジオにベッドまで持ち込みました。ヨーコのおかげで4人の関係は最悪の状態になり、スタジオに4人が全員揃うことは少なくなりました。

このアルバムをソロ作品の寄せ集めという人もいます。確かにビートルズ以外のミュージシャンを使って各自が代わる代わるレコーディングした曲が多いのは事実です。ロックンロール、ハードロック、ブルース、カントリー、スタンダードポップス、フォークロック、サイケデリアなど多種多様な曲が30曲もありますが、SIDE1からSIDE4を別々のアルバムと思って聴いてみるとそれぞれにストーリーがあるように感じます。

特にSIDE1とSIDE2が好きです。また、息子のジュリアンのために書いた最後の Good Night も大好きです。

ただ、その前の8分15秒もある Revolution9 はヨーコのアイデアに触発されて作った音楽のモンタージュと言う感じで、現代音楽的な挑戦とも言えますが、LSDやマリファナをやりながら叫んでいるジョンが目に浮かびます。他のメンバーもジョージ・マーティンもこの曲を外そうとした気持ちはさすがにわかります。

このような様々な30曲を白一色で包んだジャケットは、聴き手に自由に感じ取ってほしいという気持ち、飾り気を一切捨てたこれが今のビートルズですというピュアな気持ちの表れだと思います。

余談ですが、アイデアは画家のリチャード・ハミルトン、そしてパッケージ・デザインはゴードン・ハウスが担当しました。

イギリスでは1968年11月22日にリリース(アメリカは11月25日)。

リリース後1ヶ月で400万枚以上に達し、1970年末までに2枚組アルバムとしては驚異的な650万枚の売り上げを達成。1977年の「サタデー・ナイト・フィーバー」のサントラがリリースされるまで、2枚組アルバムの売上No.1を保っていました。

さて、話をジョンに戻しますが、この年は音楽以外の活動も精力的に行います。もちろんヨーコとの活動です。6月2日~9日までロンドンのドルリー・レーンで初めて公の共同展を開催し、6月15日には全国彫刻展覧会の参加作品として、二人でコベントリー大聖堂の庭にふたつのドングリを植えました。

そして、ジョンの最初の著作 IN HIS OWN WRITE を脚色した芝居がロンドンのオールド・ヴィク・シアターで上演され、オープニングに二人で出席。

7月1日にはロンドンのロバート・フレイザー・ギャラリーでジョンの初の個展「ユー・アー・ヒア」が開かれ、オープニングにジョンは真っ白な洋服で登場、365個の風船を飛ばしました。

そのような平和運動と芸術活動をヨーコと共に次々と実現させていってた最中の8月22日、シンシアがジョンとの離婚訴訟を起こします。そんなことはまったく意に介せずという感じでジョンはヨーコと、前衛フィルム FILM No.5(SMILE)TWO VIRGINSを制作。11月14日には「シカゴ・フイルム・フェスティバル」で上映されました。

11月8日にはシンシアとの離婚が成立しましたが、11月21日にロンドンのクイーン・シャーロット病院でヨーコが流産します。そしてその翌日、ビートルズ自身のアップル・レーベルからの初アルバム、THE BEATLES が発売されました。

事件も重なりました。

ジョンとヨーコは強制的なでっちあげ捜査で10月18日に大麻不法所持で逮捕され有罪判決となり、後々アメリカ入国の大きな障害になったのです。

そして11月29日にヨーコとの初の共同アルバム UNFINISHED MUSIC No.1 TWO VIRGINSがイギリスで発売されたものの、ふたりの全裸ジャケットが問題となり、すぐに発売禁止に。

ですが、その後も共同フィルムRAPEを制作。12月18日にはロイヤル・アルバート・ホールで行われたアンダーグラウンド芸術運動のクリスマス・パーティー「錬金術上の結婚式」のステージにふたりで白い袋を被って登場するなど、益々ふたりの活動は精力的になっていきました。

しかしもう一つの大きな問題がこの時期に膨らんできます。

5月14日にニューヨークのアメリカーナ・ホテルで設立記者会見を開いたビートルズの会社「アップル・パブリシティ」。

音楽、出版、エレクトロニクスなどの各分野の埋もれた才能を発掘し、ビジネスと芸術の融合を目指すという壮大な理念を掲げ、チャンスに恵まれないアーティストたちに自分たちの知識やお金を還元しようと考えましたが、現実は毎日おびただしい数のヒッピーがお金目当てに訪れ、アップルはあっという間に財政危機に陥ってしまったのです。

その中で後世に残る素晴らしいアーティストも発掘しましたが。メリー・ホプキン、バッド・フィンガー、ジェイムス・テイラー・・・

ビートルズ自身も8月26日に記念すべき第1弾シングル「ヘイ・ジュード」(B面レボリューション)をリリース。

ですが会社経営はまったくの素人と言っていいビートルズ。前年にブライアンが亡くなって以降、自分たちでマネージメントもできると思い込んでしまったのかもしれません。

このアップル設立が結局ビートルズ解散の決定的な引き金となってしまったのです。

レンタルのはじめの一歩 →
『お申込/お見積』のご依頼を!

レンタルのお申込/お見積