偉大なる音楽家ジョン・レノン No.16

  • Jul 17, 2014
  • Pankie Koba

1969年1月17日に「ディスク・アンド・ミュージック・エコー」紙のインタビューでジョンが語ったように、すでにアップルは崩壊寸前でした。

経営困難に陥ったアップルとビートルズを救うため、ジョンは2月3日、アラン・クラインをビートルズのビジネス・マネージャーに推薦します。しかし翌日の4日にポールはすかさず、後の妻となるリンダの父リー・イーストマンと兄ジョン・イーストマンを顧問として迎え入れ、ジョンとポールの亀裂はもう修復の余地はない状態にまでなりました。

そんな最中、1月2日から1月30日にかけて「レット・イット・ビー」のレコーディングが集中的に行われました。

このアルバムは当初「The Beatles Get Back」というタイトルで1969年8月に発売される予定で、ジャケットの写真も最初のアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」の時と同じ場所で撮影したものを使用するはずでした。さらにメンバー全員の意思としてここ数年レコードを飾り立ててきた終わりのないオーヴァーダビングなどの細工を一切施さずに制作することによって「もう一度みんなで原点に帰ろう」というメッセージが込められたものになるはずでした。

しかし、レコーディングはしたものの、1曲に何十テイクも録った中からベストヴァージョンを選ぶ作業に誰しも意欲はなく、プロデューサーのグリン・ジョンズとフィル・スペクターにすべて委ねられました。最終的にはフィル・スペクターの手で再編集とリミックスが施され、「アクロス・ザ・ユニバース」「アイ・ミー・マイン」「レット・イット・ビー」「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」の4曲は女性コーラスとオーケストラを加えたものになってしまいました。

このレコーディング・セッションはもともとTV用に撮影され、また全世界で放映されるライヴのリハーサルとして行われたものでした。

でも最終的には映画館で上映されることになり、その封切りに合わせて、発売も1970年の5月8日になりました。(アメリカでは5月18日。)

その時にはすでにグループは崩壊していました。皮肉にもジャケット・デザインは黒い葬儀写真風になっています。余談ですが、これはジョン・コッシュによるものです。彼もわかっていたのか、それともホワイト・アルバムの後だからブラックにしたのか・・・

余談ついでに、1月30日アップルスタジオのあるビルの屋上でのライブは急遽メンバーが合意して実現したゲリラライブでした。

この狭いスペースの中にコントロールルームは作れず、屋上から地下まで階段を伝って配線を延ばし、グリン・ジョンズとアラン・パーソンズがアップル・スタジオの中でミキシングとレコーディングの作業を行いました。

屋上は風が強く、その対策としてアラン・パーソンズはセッション前にデパートで女性用のストッキングを買ってきてマイクにかぶせたそうです。また、気温も2度しかなく、「手がかじかんでコードが弾けない」というジョンの声も聞くことができます。

最後の曲「ゲット・バック」の演奏中に警官が現れ、マル・エヴァンスがギターアンプの電源を慌てて切ってしまうところはまさにライブ・ドキュメンタリーですね。

さて、「レット・イット・ビー」のアルバムの中で特筆すべきジョンの曲はありませんが、「アクロス・ザ・ユニバース」は今までジョンが作った曲の中で最もシンプルなものでしょう。

この曲はホワイトのレコーデイングより先に、1968年2月4日にレコーディングされたものですが、フィル・スペクターのアレンジ前の「ネイキッド」に収録されているバージョンを聴くと一切の装飾や小細工を取り除き、自然のままに生きる決意をしたジョンの姿勢が感じられます。

後の「イマジン」に通じる名曲だと思います。

1969年2月2日にトニーコックスと離婚したヨーコとついに3月20日ジブラルタルで結婚式を挙げます。

(この結婚と新婚旅行の歌が「ジョンとヨーコのバラード」です。4月14日にレコーデイングされましたが、何故かこの時はジョンもポールも機嫌がよかったらしく、予定よりかなり早く終了したそうです。)

そして3月25日~31日と5月26日~6月2日に「平和のためのベッド・イン」記者会見を行ったり、ジョンとヨーコのグループ「プラスティック・オノ・バンド」のデビュー・シングル「Give Please A Chance」を7月4日に発売したりと、ビートルズ以外の活動が中心になりビートルズ解散は時間の問題となってきました。

そんな中、もう一つの最高傑作と評される「アビイ・ロード」のレコーディングが行われたのです。

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