お客様各位
いつもサムシング・ニューのトランシーバーレンタルをご利用いただき誠にありがとうございます。
甚だ勝手とは存じますが12月28日(土)から1月5日(日)までの9日間を年末年始の休みとさせていただきます。
なお、1月6日(月)からは通常通り営業いたします。
休みの間にいただきましたお問い合わせやお申し込みにつきましては、1月6日(月)より順次ご対応させていただきます。
何卒ご理解ご協力の程、よろしくお願いいたします。
本年も残すところ僅かとなりました。皆様のご支援とお引き立てに深く感謝申し上げるとともに、来年もまた一層のご愛顧の程よろしくお願い申し上げます。
前回に少しだけ書いた「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」が1967年2月17日にペニーレイン(ポール作)と一緒にシングル・リリースされました。(アメリカでは一足早く2月13日にリリース)
どっちがA面とかは私にとってはどうでもよいので語りません。(両方ともA面という人もいますが。)
「ストロベリー・フィールズ」はジョンが育った家の近所にある救世軍本部(孤児院)のことで、そこで開かれるパーティーでの楽しいひととき、古き良き思い出に浸りながら、虚無的な世界を描きたかったのでしょう。
音響アレンジのことは「サージェント・ペパー」で書いた内容と重複するので省きます。(逆回転のテープループなど。)
まず特徴的なのは、ジョンのけだるい歌い方です。フェイザーなどのエフェクトをかけて空中を浮遊する感じが何とも言えません。
そしてこの曲の重要な要素は音の隙間です。現実感を排除する素晴らしい効果を出しています。
曲の構成はいたってシンプルですが、所々に2拍子・3拍子を混ぜて曲調を微妙に変化させたり、Bメロの冒頭部分のキーをB♭からFに転調した感じにしたり、ジョンならではの真骨頂が随所に発揮されてます。
この年の締めくくりのアルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」にも収録されてますが、この曲はある意味、ジョン個人にとっても時代的にも1967年を象徴した曲のひとつと言えるでしょう。
もうひとつ、同じように構成も曲調もいたってシンプルな曲をこの年リリースします。
ジョンの掲げる「ラヴ&ピース」の代名詞にもなった「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」です。
この曲も「マジカル」に収録されてますが、1967年6月25日の世界同時衛星生中継番組「アワ・ワールド」で、視聴者の前でライヴレコーディングするという企画で、作られた曲です。
本当は、6月14日にオリンピック・スタジオでバッキング・トラックを、6月19日にアビイ・ロード・スタジオでヴォーカルと追加バッキングをレコーディングし、そして6月24日に最終レコーディングを行い、翌25日に完成したバッキング・トラックに合わせ、生で歌い演奏しました。テレビでは視聴者にレコーディングを実際にしているように見せることはできたわけです。(ジョンのリード・ヴォーカルは翌26日に再レコーデイングされました。)
そしてイギリスでは7月7日の七夕の日?にシングル・リリースされ、4週間1位に。アメリカでも7月17日にリリースされ、1位になりました。
曲の特徴としては、この年他の楽曲でもよく使われた変拍子が用いられている点です。4拍子と3拍子の繰り返しで始まります。また、もうひとつこの年ジョンお気に入りになったベース音が下降していく展開がBメロの中でみられます。
G-D(onF#)-Em-G-D(onF#)-Em-Am7-G-D(onF#)-D(onE)-D-D(onC)-D(onB)-D(onA)-Gという展開です。
そしてジョンがハープシコードでバッキングを入れている点も聴き逃せません。音質がクリアなので、軽いタッチの仕上がりになってます。
オーケストラ的サウンドはこの年から定番的になってきましたが、ポールの意向と主張が強く感じられるので多くは語りません。ジョンの趣向ではなかったはずです。それはジョンがソロになってからリリースしたアルバムを聴けばわかるでしょう。
イントロでは「フランス国歌」が、エンディングでは、「イエスタデイ」、「シー・ラヴズ・ユー」の歌と「イン・ザ・ムード」「グリーン・スリーブス」の演奏が入り、明るく楽しい雰囲気を醸し出してます。
もうひとつ、「マジカル」の中に収録されてる曲で、ジョンの最後のサイケデリック・ソングと言われてる「アイ・アム・ザ・ウォルラス」がこの年の大傑作と言えるでしょう。
1967年11月24日に「ハロー・グッドバイ」のB面としてシングル・リリースされました。(B面と聞いてジョンはかなり憤ったそうです。)
この年、ジョンにとってショッキングな出来事が起こります。それは、ジョンの兄とも父親ともいえるマネージャーのブライアンの死です。1967年8月27日 享年32歳。睡眠薬の過剰服用による死亡と推定されてますが・・・
その9日後からこの曲はレコーディングされました。
モチーフは、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」に出てくる「セイウチと大工」ですが、そのクレイジーでシュールな詞はトリップしながら書いたものだと誰でもわかるでしょう。ブライアンの死によるジョンのやり場のない気持ちが伝わってきます。
詞については訳詞がネットでも見れるので解説はしませんが、まるでダリの絵画をみるような気がします。
ひとつだけ解説すると、歌詞の中に登場するエッグマンはジョンの造語ですが、マザー・グースの童謡に出てくるハンプティー・ダンプティーとアニマルズのヴォーカリスト、エリック・バードンから浮んだものだそうです。エリック・バードンはその奇妙な性癖から「エッグ」と何故か呼ばれてました。(歌詞にもあるようにきっと頭を伸ばす芸とか持ってたのかも。)
さて、曲についてですが、まずエレクトリック・ピアノ(ウーリッツァという当時コンパクトなボディで人気があったモデルです。)でジョンが弾いてるイントロのリズムが印象的です。3度5度の和音とルートの音を交互に8分音符で奏でるだけのシンプルなリズムですが、これは、ジョンがある日、自宅前を通った救急車のサイレン音のドップラー効果による高低のサウンドと規則的な音の間隔にインスパイアされたものだそうです。
そしてAメロ・Bメロの部分は3和音の4分弾きでベーシックな部分をしっかり作り、歌詞もリズムの一部になって、韻をふむ言い回しがとても生きています。また最後の繰り返しの部分では回を重ねる毎に1オクターブ上がり、リズムも4分から8分そして16分と変化をつけ、盛り上がっていきます。それから、前半と後半をつなぐ部分とエンディングに聴こえるラジオ音は、ジョンがBBCのラジオ放送のダイアルを回して適当に録った音声をリミックスの段階で入れたものですが、最後に聴こえるセリフはシェークスピア作リア王の一部です。
この曲のキーはAですが、イントロはB-A-G-F-E-E7-D-D7、AメロはA-C-D-A-C-D-A、BメロはA-D-F-G-A-F-B-C-D-E、後半はB-A-G-F-E-F-B-C-D-E-D-C-B(ここのメロディーはインド音楽を感じさせますね)、最後はA-G-F-E-D-C-Bの繰り返しです。
この展開からもわかるようにキーCのスケール上の音をルートにしたメジャーコードで下降させたり、上昇させたりしてるだけですが、キーがAなのに、Eにも、Bにもなるような展開で、いったいキーは何なのかわからないという魔法のようなテクニックです。おそらくプロのミュージシャンでも譜面なしで聴いただけでは、キーがすぐにわかる人は少ないと思います。メロディーもイントロの交互に上下する規則正しい音が繰り返し続き、まるでお経のようです。しかしフレーズの締めくくりはまさしくロックです。エンディングに至ってはこれぞ真のロックと言えるでしょう。もうひとつこのコード進行は、ローリング・ストーンズやクリームやジミ・ヘンやベンチャーズ(ロックグループか?)など(挙げていくとキリがないのでこのへんで)のロックグループが必ずやると言っていいコード進行の総集編みたいです。シンプルなのに画期的な雰囲気を醸し出す、ジョンのにくい技が隠された、まさにプロ好みと一曲と言えるでしょう。
ヴォーカル・エフェクトにもファズやフランジャーを使い、サイケな中に重厚感も感じます。
「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のリリースから「アイ・アム・ザ・ウオルラス」のリリースまでの間に、ジョンはマリファナだけでなくLSDも常用するようになり、瞑想と幻想の世界に浸る時間が増えていった。そして8月24日に敬愛するマハリシ・マヘーシュ・ヨーギー師に出会い、その直後に大切なブライアンを亡くしました。
11月27日にリリースされたアルバム「マジカル・ミステリー・ツアー」も、12月26日にBBCで放映された同名のテレビ映画もポールのアイデアをもとに制作されたものですが、1967年はジョンにとってまさに「マジカル・ミステリー・ツアー」といえるでしょう。
翌年、ジョンはインド音楽そして文化・思想にますます傾倒していくようになります。また、ジョンにとってかけがえのない人になるヨーコ、そして盟友ポールとの関係が決定的になる年、それが1968年です。
1967年はジョンにとって、これからの音楽的世界観そして人生観までも決定づける重大な年になりました。 1966年の「リボルバー」の作品群(特に「トゥモロー・ネバー・ノウズ」)そして1966年秋、映画「ジョン・レノンの僕の戦争」の撮影中にスペインのアルメニアで書いた「ストロベリー・フィールズ・フォー・エバー」にも顕著に感じられる幻想的美学、反逆的美学そして東洋的美学がジョンの個性として確立した年と言えるからです。 それは、マリファナやLSDの常習と並行してオノ・ヨーコの生き方・考え方がジョンに強い影響を与え始めたからだと思います。 この年に発売された2枚のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」と「マジカル・ミステリー・ツアー」に収録されたジョンの曲を聴けばわかると思います。 今回はビートルズの歴史的名盤として名高い1967年6月1日発売の「サージェント・ペパー」の収録曲「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」と「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」についてお話したいと思います。 その前にこのアルバムについての私見を話します。このアルバムはポールが主体となって企画・制作されたもので、ポールのショウ的構成にはあまり気乗りしてなかったジョンですが、最終的に後のポップ・ミュージックに多大な影響を与えたのは前筆の2曲でした。 このアルバムはポップス界では画期的な構成であるアルバム全体をひとつのコンサートに見立てたものにしています。このアイデアはポールが考えたものです。これ以前のポップス系アルバムはレコード会社が考案した、ヒット・ソングからさらに収益を上げるための手段にすぎず、ヒット・ソングと一緒に他の10曲程度を一緒にした寄せ集め的なものが一般的で、全体の構成や脈絡などありませんでした。 「サージェント・ペパー」はオーケストラのチューニングから始まり、コンサートを待つ観客のざわめき、そしてハードなロック・サウンドが鳴り響きバンドが紹介される。「どうぞショウをお楽しみください。」というくだりとともにコンサートが開幕となり、アルバムの終わりには、この曲の再演でコンサートの終わりが告げられ、アンコール曲も入ります。(このアンコール曲でジョンの大逆転勝利となるので、私にとっては小気味いいものがあります。) また、ジャケット・デザインのアイデアもポールです。歴史的大スターたちとともに、くすんだ色の服を着た蝋人形の自分たちと、その隣に明るい色の制服を着て立ってるビートルズ。公園の花壇のすぐ隣にあるステージで演奏を終えたばかりの楽団が大勢の観客に取り囲まれてるという設定らしいですが、確かにビートルズの画期的な変質を端的に表してます。でもアルバム全体の構成企画も、タイトル曲も、ジャケット・デザインも結局はジョンの作った2曲(「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」はポールの部分もありますが。)の最高のお膳立てになってるという気がしてなりません。 ですからサイケデリック・ミュージックの象徴となり、アメリカのヒッピー・ムーブメントのサウンド・トラックにもなったこのアルバムの根幹をなす曲はというと上記の2曲でしょう。 では初めにA面3曲目の「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」について話したいと思います。 息子のジュリアンが4歳の時、同級生のルーシーという女の子を描いた絵を持って帰った日、いろんな色で爆発してる星を背景にルーシーの顔を描いた絵を見て、ジュリアンにその絵の題を尋ねたところ、「ダイヤモンドと空に浮かぶルーシーだよ、パパ。」と答えたらしい。曲のタイトルの頭文字を並べるとLSDになるというそんな無粋な考えしかできない輩が教育上よくないという理由で放送禁止にしたりしました。どうしてジョンの洒落た言葉遊びだと理解できなかったんでしょう。それこそ大人げないですね。 ジョンが愛読していたルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」と「鏡の国のアリス」のイメージを彷彿させる言葉、「川に浮かんだ小舟」「黄色と緑のセロファンの花の下」「新聞紙のタクシー」「岸辺のタンジェリンの木」「ママレード色の空」そして「万華鏡の瞳をした少女」。ファンタジックな絵本を思わせる詩にゆっくり回転するかのような3拍子のメロディー。 イントロはリフのメロディ・ラインをすべて凝縮したフレーズでまるでお経のようです。空(天)に向かって昇っていくようなイメージを、チェレスタに似たベルのような音を出す特別のオルガンストップが付いたハモンド・オルガンで表現してます。 ヴォーカル音にもフェイザーをかけてその雰囲気を醸し出してます。そしてサビはガラっと雰囲気を変えてハードなロック調に変身!この世界観をギター・ベース・オルガン・ドラムスそして3人のヴォーカルだけで表現してしまうとはただただ脱帽です。 余談ですが、この曲のモデルとなったジュリアンの保育園時代の友人ルーシー・ボーデンさん(旧姓:ルーシー・オドネル)は2009年9月29日に46歳で亡くなりました。 次にこのアルバムのラストを飾る曲「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」です。 「人生の中のある一日」という哲学的なタイトルですが、ジョンとポールは日常の出来事をさらっと歌っています。 どこかこの時代にフランスで流行してた実存主義を感じさせます。 ジョンが読んだ新聞のふたつの記事が歌詞になっています。ひとつはギネス家の跡取りのタラ・ブラウンが1966年12月18日愛車のロータス・エランで赤信号を突っ切り、サウス・ケンジントンの交差点に停車していたVANに時速100マイルで追突したという記事。享年21歳。もう一つの記事は、ランカシャー州ブラックバーンの道路には4000個の穴が開いていて早急に埋めないとならないという記事。ジョンは、アルバート・ホール(ロンドンの有名なコンサート会場)を満員にするのにいくつ穴が必要かはわかっているというウィットに富んだ言い方も交えた歌詞にしてます。このふたつの間をポールが作った歌詞がうまく繋いでます。 朝寝過ごして遅刻しそうだったのでコーヒーだけ飲んでバスの2階に飛び乗って煙草をふかしたら夢の世界に入ったという他愛もない歌詞ですが、ジョンの世界観に見事に溶け込んでます。ポールは別の曲に使おうと温めてた歌詞らしいですが、この曲を完成させるために惜しみなく提供するところは、ジョンに対する尊敬と友情を感じます。またジョンが滅法気に入ったフレーズがポールの作った「I’d love turn you on」です。「あなたを目覚めさせたい」というような教科書的な陳腐な訳になってますが、もう少し官能的な訳にしてほしいものです。具体的には書きませんが・・・ この曲のコード進行ですが、G-Bm7-Em-Em7-C-Cmaj7-Am9でルート音がG-F-E-D-C-B-Aと下がっていきます。この進行は後のポップ・ミュージックにたくさん使われるようになりました。因みにこの年プロコル・ハルムが5月に発売したデビューシングル「青い影」も出だしはまったく同じコード進行です。もしかしたら、この年ビートルズと交流があったか、元々仲がよかったのかもしれませんね。 曲の構成に戻りますが、ポールの作った部分はEに転調し、軽快なリズムに変わります。そしてまた元のリフに戻り、いよいよクライマックスである最後の24小節に突入します。ここでは41人のオーケストラの楽器が出せる最低音から始まり、Eメジャーコードに一番近い各楽器の最高音まで無秩序でバラバラに昇っていきます。ジョンが指示したのは、この世の終わりを感じさせるような音まで上げてほしいということでしたが、この世の終わりではなく、天国まで昇りきった感じがします。 ポールは自分がやりたかったオーケストラゼーションがこの曲で初めてできたと思います。今までジョンとポールの共作についてはあまり書きませんでしたが、ジョンとポールの友情と才能が見事に融合された曲だと思います。共作の中では最高傑作と言えるでしょう。 ただ、残念なことはジョンの生の声が聴けなくなったことです。この曲でもテープ・エコーという新しい試みで小刻みに震えるヴォーカル・サウンドを作りました。(ジョンは自分の声が嫌いだったらしいですが、個人的にはツイスト・アンド・シャウトを歌ったロックン・ローラーのジョンが最高に好きです。ソロアルバムで再び聴くことができますが・・・) そしてこの名曲もBBCは放送禁止処分にしました。 マリファナ(ポールの歌詞)と麻薬中毒患者の腕に残る注射針の跡(4000個の穴)を連想させると解釈したからだそうです。 想像力が欠如した保守的な大人たちが多かったんでしょうね。 ですから、上記の2曲のおかげで「サージェント・ペパー」はフラワー・ムーブメントのバイブルともいうべきアルバムになったのです。 皮肉なものですね。 この後、ジョンにとって最もショッキングな出来事が起こります。アナログ電波とデジタル電波の特性の違いが顕著に表れる点として、まず音質です。アナログの方は肉声に近い音質ですが、デジタルの方は圧縮した音質なので、クリアでシャープな感じに聞こえます。
次に交信距離ですが、デジタル電波は直進性が優れているので、遮蔽物ない屋外では威力を発揮します。最大5~6Kmの距離でも交信できます。ただし、ビルや住宅などの遮蔽物がある市街地では4Wのアナログトランシーバーと全く変わりません。
また、デジタル電波は一定の交信環境を下回った時に突然「プツっ」と交信できない状態になります。一方アナログ電波はそういう環境になった場合、雑音が混じるようになりますが、突然途切れるようなことはありません。
それから、同一チャンネルを交信可能な範囲内で他局が使用している場合、アナログトランシーバーはトーンスケルチ設定がされているので他局の通話を受信したり、こちらの通話を受信されたりする心配と交信不能になる心配は全くありません。
デジタルトランシーバー(登録局)はユーザーコードとチャンネルが同じであれば、他局の通話を受信できるし、こちらの通話も受信されてしまいますので、秘話設定機能が付いています。(ただし、弊社のトランシーバーは秘話設定をしておりません。)また、異なるユーザーコードで同チャンネルの場合、他局の通話との混信はありませんがキャリアセンス機能により、最初に送信スイッチを押した人だけが送信でき、その間の他の人は全く送信ができなくなってしまいます。
一つの会場内で大量のトランシーバーを複数チャンネルで使用する場合、アナログトランシーバーは別チャンネルでも電波干渉を起こし、雑音状態になる時もありますが、デジタルトランシーバーはその心配はありません。
最後に通話時間の違いです。バッテリー1個で、アナログトランシーバーは10~12時間は可能ですが、同じ容量のバッテリーで、デジタルトランシーバーの通話時間は7~8時間くらいになってしまいます。
1966年、ジョン・レノンの心の変化が如実に現れた年だと思います。
まず、有名なキリスト教発言。
1966年3月4日 ロンドン イブニング・スタンダード紙のモーリーン・クリーヴのインタビューに答えたものですが、自分たちビートルズも含め、権力や冨に対するどうしようもない苛立ちと怒りを抱えてたジョンの心の表れで、決してイエスやキリスト教自体を否定する気持ちはなかったと思います。
ただ、イギリスでは何の問題にもならなかったこの発言が7月にアメリカのティーン向け雑誌「デートブック」に掲載されると、バイブル・ベルトの保守的宗教団体から火が付いたアンチ・ビートルズ活動が世界中に広まりました。
度重なる脅迫と8月の最後のアメリカツアーのため、ジョンは釈明記者会見を開くことを余儀なくされました。
そしてこの年、画期的なアルバム「リボルバー」が8月5日にリリースされます。
このアルバムはもともと「アブダカダブラ」(イメージはよくわかりますけどね。)と命名される予定でしたが、別のアルバムにこの名前があったため、ボツになりました。
当時、アメリカによるベトナムへの攻撃がますます激しくなり、アメリカではマリファナやLSDが若者に広がりドラッグ文化の勃興期にありました。絵画、文学、音楽などあらゆる知的表現の分野で「幻覚」が大きなテーマとなり、サイケデリックな表現が流行し始めた頃です。
まさにこのアルバムはその後の音楽的発想に革命を起こしたと言えるでしょう。
今思えば「リボルバー」というタイトルでよかったと思います。
このアルバムは1966年4月6日から6月21日の間にいつものアビイ・ロード・スタジオで録音されました。
いままでのアルバムとは、ソングライテイングもスタジオ・レコーデイングテクニックもまったく異なる次元のものを感じます。それまでのアイドル性を排除し、世間を気にせずにやりたいことをやるんだという強い姿勢が感じられるからです。
それは、タンブーラやシタールといった東洋楽器をより多く使用したり、テープ・ループや逆回転の演奏という試みを発見したり、ブラス・バンドや潜水艦の効果音を取り入れたり、さらには個人的な恋愛ではない、普遍的・抽象的な歌詞表現が多くなるなど、音楽的にも人間的にもそれぞれがものすごく成長を競ってる姿勢に顕れています。
このアルバムの中で、ジョンの特筆すべき点は、「アイム・オンリー・スリーピング」や「トゥモロー・ネバー・ノウズ」などで駆使した逆回転の演奏やテープ・ループのテクニックです。(これは、6月10日にリリースされたシングル盤「ペーパーバック・ライター」のB面「レイン」にも使ってますが・・・)
また、「シー・セッド・シー・セッド」、「アンド・ユア・バード・キャン・シング」も含め、名声を得、物欲を満たしても心は満たされない葛藤と前年から傾倒し始めた東洋の輪廻思想が色濃く顕れており、今後のジョンの世界観・生き方を明確に物語っていることです。
圧巻はやはりエンデイングの「トゥモロー・ネバー・ノウズ」でしょう。
この曲はジョンが持っていた「チベットの死者の書」からヒントを得て作ったものです。
ダライ・ラマが山頂からうたってる感じにしたかったようです。ハモンドオルガン用のレズリースピーカーを使ってドップラー効果を出しました。また、お経のようにしたかったのでしょう。歌詞もそうですが、構成を全編Cコードだけで展開してます。
普通では考えられない展開を想いつくジョンの発想力にまたまた脱帽です。
そして6月、7月の日本公演でジョンと日本の思想・文化との関係が深まり、さらにこの年の11月、運命の出会いが生れます。ロンドン インディカ・ギャラリーで個展の準備をしていたオノ・ヨーコとの出会いです。
ジョンは美術学校時代、東洋文化専攻の友人から日本や東洋文化のことを聞いて、「禅」や「空」の概念に興味を持ってたそうです。ヨーコのアートはそれを反映したもので、ジョンの心を透明な水で潤すほど深い感銘を受けました。
次のアルバム「サージェント・ペパー」の録音スタジオにジョンがヨーコを連れてきた時には、メンバーはかなり驚いたはずです。
ただ、個人的な憶測ですが、この時期ヨーコが現れなかったら、ジョンのドラッグ漬けの生活はまだ続いてたかもしれません。
余談ですが、「リボルバー」のアルバムジャケットをデザインしたクラウス・フォアマンはハンブルグ時代からの友人です。
1961年スチュアート・サトクリフが脱退した後、スチュからベースを教えてもらったクラウスがメンバーに入らせてほしいと申し入れたのをジョンが断った経緯がありますが、この後クラウスはジョンのソロアルバムをはじめ、その他のメンバーのアルバムにもベーシストとして参加してます。
ハンブルク時代に培われた友情の絆の深さが伝わってきますね。
アルバム「HELP!」の発売後ほどなく3回目のアメリカ・ツアーを開始しました。
8月15日~31日までの約半月間に、いままでの観客動員数を塗り替えるコンサートをいくつも行いました。
この期間中にジョンは憧れのエルビス・プレスリーと会うのです。
8月27日ビバリーヒルズのプレスリー宅をジョンは訪問しました。ただ、この時すでにジョンソン大統領によるベトナム戦争が激化してたので、ジョンはプレスリーにベトナム戦争を批判する発言をしたところ、愛国精神が強いプレスリーはひどく気分を害し、ジョンソン大統領に直接電話で、ジョンのことを「あいつは狂ってる。危険人物だ。アメリカから追放した方がいい。」と話しました。このことが原因で、後のアメリカ国外追放に繋がるわけです。
そして、この年の10月26日バッキンガム宮殿でビートルズはMBE勲章を授与されます。イギリスの外貨獲得に大きく寄与したことが理由でした。
最初ジョンは勲章を受け取るつもりはありませんでしたが、ブライアンから「勲章をもらうことに異議があっても、まず受け取らないことには何もできないぞ。」と忠告され、渋々受け取ることにしました。
ジョンの中にはビートルズの活動に対する疑問と抵抗がますます膨らんでた頃であり、ポールとの意見の対立も激しくなってきた時でもありました。
そんな状況の中、その年のクリスマスシーズンに間に合わせるため、10月12日から11月11日までのたった1ヶ月でレコーディングされたアルバムが「ラバー・ソウル」です。
セッションが始まる10月12日になってもほとんど曲ができてなかったのに、たったの4週間で14曲のオリジナルを作ってしまいました。(B面5曲目のウェイトだけはHELP!の最終セッションでレコーディングしたものにオーヴァーダビングをほどこしたものです。)
そんな短期間に作ったにもかかわらず、革新的なポップミュージックの名曲の数々を産み出しました。
まず、A面2曲目の「ノーウェジアン・ウッド」。この曲で初めてシタールというインドの楽器を使います。弾いてるのはジョージですが、ジョンがどうしてもこの曲に使いたいと考え、拍数とギターの伴奏をシタールに合うよう考案しました。拍数は8分の12拍子で、リズムギターはアコースティックのみ。ボブ・ディランやザ・バーズのようなフォーク・ロックで田園風景を感じさせる曲調に、シタールがより広大で深淵なイメージを醸し出してます。
余談ですが、このときジョージは、ギターと同じ西洋音階のチューニングで弾いてたそうです。
次に、A面4曲目の「ひとりぼっちのあいつ」。この曲はジョンの心の内面を歌った曲です。自分がこれからどこへ向かうのか模索していたのが感じられます。でも、ハーモニーの素晴らしさは絶品です。4度から3度そして6度の展開のハーモニーを出だしから披露してくれます。
もうひとつ特筆すべき曲は、B面4曲目の「イン・マイ・ライフ」。ジョンが育った街ペニー・レインそしてスチュアート・サトクリフやピート・ショットンらの親友への思いが綴られた名曲です。(後にポールが対抗してペニー・レインを作ります。)なんとも風情がある曲で、25歳にしてジョンの集大成と言えるでしょう。また、アルバムの象徴的な曲だと思います。
アルバム・タイトルはイギリス風R&Bを表現したとかローリング・ストーンズを揶揄ったプラスティック・ソウルから捻ったものだとか言われますが、ラバー・ソウルはビートルズの心・魂そのものを表現してると思います。
初期のビートルズとは違う大人になったビートルズを感じさせ、今後の方向性を確立させたアルバムとも言えるでしょう。
僕にとって、最高に好きなアルバムです。
ビートルズ2作目の映画「HELP!」の撮影が1965年2月22日から5月12日にかけてバハマ、オーストリアなどで行われました。
その間を縫ってオリジナルアルバムとしては5枚目となる「Help!」のレコーディングを行います。
表題曲の「Help!」は1965年4月4日にジョンによって作られ、4月13日にレコーデイングされました。
人気が出れば出るほど周囲の期待は過剰になりプライベートな時間は皆無、パーティーなどで権力を振りかざし自分の娘にサインを無理やりさせるお偉方・・・ポップスターとして扱われることに疲れていたジョンは、厭世的な気持ちに苛まれてました。
自分が本当に求めていたものは人気や莫大な富ではなく、好きな音楽を自由に表現することだとボブ・ディランと会って再認識したジョンの心の悩みや葛藤をポップな楽曲に乗せて表現した傑作、それが「Help!」です。
この曲の前に、ボブ・ディランそのものと思える「悲しみはぶっとばせ」を作ってますが、もはや、ストレートに悲痛な叫び声をあげたかったんだと思います。
ただ、それを感じさせない見事なポップソングとして完成させたところがジョンの真骨頂であり、プロ魂でしょう。
余談ですが、当初は「Eight Arms To Hold You」というタイトルが「Help!」のシングル盤にも映画にもつけられる予定でしたが、きっとジョンの強い思いでこのタイトルに変わったのだと思います。
この曲で注目する点はまずジョンの表情豊かなリズムギターです。いつも通りノリがいいのと、所々でアコーステイック・ギターのボディを叩く奏法をしてみたり、アルペジオのニュアンスで弾いたりしています。特に最初の7~8小節目とサビの最後のフィンガリング・フォーム!2弦、3弦の開放を使って降りてくる大胆な発想力にまたまた脱帽です。
そして、サビから入る構成でストレートに心の叫びを表現してますが、ハーモニーの構成を微妙に変えることでビートルズならではの洗練さを醸し出してる所は大人ですね。
最初の「ヘルプ!」のハーモニーはコードBmの3度で辛さが直接伝わる感じですが、2番目ではコードGの4度、3番目ではコードE7の3度になり、そして最後にコードA7の6度ハーモニーで仕上げています。またサビの最後の「プリーズ、プリーズ、ヘルプ、ミー」の部分も3度から、5度、6度、3度と微妙に変化をつけてます。そしてエンディングもA6のコードに6度のハーモニーで締め括るなんて涙が出てきます。
このアルバムには、他にもジョンの特徴が感じられる曲があります。
そのひとつが「恋のアドバイス」です。ジョンの大好きな、流れるようなコーラスワークと転調の妙技は流石です。ここでも4度や6度の洗練されたハーモニーを効果的に使っています。
もうひとつは「涙の乗車券」です。こちらでもイントロ4小節後のリフ2小節目~3小節目の4度ハーモニー、そしてサビに入る前とエンディングの4度から5度、6度と変化させるハーモニーはシンプルなメロディーになんとも言えない彩を与えてます。
ジョンはこの映画の撮影期間中に心の葛藤がピークに達し、3月には旧友ピート・ショットンとジョージとでヘイリング・スーパーマーケットを設立したり、4月にはシンシア、ジョージ、パティ・ボイドとLSDを初体験しました。
その後ジョンはさらに自己の内面を探り、精神を解放していく方向に向かいました。
このアルバムはイギリスで1965年8月6日に発売され、アメリカでも「ビートルズVI」という編集盤が6月14日に発売され、その後イギリスとは別内容の「Help!」「イエスタデイ・アンド・トゥデイ」が次々と発売され記録的な大ヒットとなりました。
日本でも1965年9月15日に「4人はアイドル」というタイトルで発売され、映画も11月に公開されましたが、日本では何故かその年のチャートで1位になれませんでした。
それを阻んだのが、「サウンド・オブ・ミュージック」のサントラと、ベンチャーズの来日記念盤だったのです。
「ア・ハードデイズ・ナイト」の発売後、まもなく7月28日・29日のスウェーデン公演を行い、さらに8月19日~9月20日まで2回目のアメリカ公演を行いました。
その大規模なアメリカ公演を挟んで作ったアルバムが「ビートルズ・フォー・セール」です。1964年8月11日から10月26日にかけてアビイ・ロード・スタジオでレコーディングされました。イギリスでは12月4日にリリースされ9週間トップを飾りました。
収録曲は14曲中、8曲がオリジナルですが、ジョン自身が作った曲は「ノー・リプライ」、「アイム・ア・ルーザー」、「パーティーはそのままに」の3曲だけで、ポールと一緒に作った「ベイビーズ・イン・ブラック」を入れても半分だけでした。
このアルバムのレコーディングをする半年程前、ハンブルク時代に真の友情を育んだアスリット・キルヒヘアは写真家として、映画「ハード・デイズ・ナイト」の撮影旅行に同行し、ビートルマニアの凄まじさを目の当たりにしてジョンの精神的疲労をひどく憂いてました。
A面2曲目の「アイム・ア・ルーザー」はジョンがボブ・ディランに傾倒してた頃に作った曲ですが、彼女はジョンの心の叫び、嘘のない言葉が胸に突き刺さって泣きながら聴いたそうです。
ビートルズのメンバーとは、アルバム発売後のクリスマスショーに招待された時に再会しますが、精も根も尽き果てたジョンの姿に心が引き裂かれ、その後自分からは一切連絡をとることはありませんでした。もはや、住む世界が明らかに変わってしまったと感じたのでしょう。
アルバムジャケット写真はみんな陰鬱な表情ですが、タイトルはクリスマスシーズンということもあり、「ビートルズ売出し中」という皮肉なものになってます。
オリジナル以外の選曲をみても、かなりアメリカ市場を意識してるのがわかります。それと実際にアメリカの土地を踏んだことが大きく影響してるのでしょう。カントリーやロカビリー系の曲調のものが多く、シャッフルビートの曲が目立ちます。「アイム・ア・ルーザー」をはじめ、オリジナル曲にもシャッフルビートを使ってるので、アルバム全体がカントリー調に仕上がってます。また、オリジナル以外の曲も長年のライヴ・レパートリーばかりなので、流石としか言いようのない仕上がりです。
このアルバムで印象的な曲は何と言ってもA面1曲目の「ノー・リプライ」でしょう。いきなり、イントロなしでボーカルから入る新しい試み、ジョンの切ない声、最高です!このA面1曲目と2曲目は、アルバムの中でジョンが表現したいすべてが凝縮されてると言ってもいいでしょう。
このレコーディングの中、8月19日からアメリカ・カナダの大規模公演を行いました。そして、8月29日、コンサートの後、ニューヨークのデルモニコ・ホテルで憧れのボブ・ディランとジョンは会うのです。
それからのジョンのスタイルはまったく変わりました。客観的ではなく主観的に曲を書くようになり、ロックと自分の内面を表現した詞の融合は、次のアルバム「ヘルプ!」で見事に表現されます。
ただ、ジョンの心の葛藤・悩みは極限状態を迎えてました。
大勝利を収めた初のアメリカ訪問から戻ったビートルズは、初の試みとなる、長編映画とタイアップしたアルバム「ア・ハード・デイズ・ナイト」の 締切りに追われることになります。
映画の撮影が始まる1964年3月2日の前に、サウンドトラック用として2月25日から3月1日までに6曲をレコーディングし、映画撮影中の4月16日に「ア・ハード・デイズ・ナイト」をレコーディングしました。空前の大ヒットシングルにもなったA面7曲目の「キャント・バイ・ミー・ラヴ」は1月29日、フランス公演期間中にパリでレコーディングされました。残りの5曲は6月1日と2日にレコーディングされたものです。
全13曲すべてオリジナルというアルバムで、そのうちタイトル曲も含めた10曲をジョンが作詞・作曲しました。
このアルバムのA面(映画で使用された曲)をどっちがたくさんものにするか、そしてどっちがたくさんヒット・シングルを書くか、ポールと競争してたのがわかります。ジョンが一番エネルギーに満ち溢れてた時だったので、上記のような結果になりました。
このアルバムのタイトル「ア・ハード・デイズ・ナイト」は、とりわけ仕事がきつかった撮影中の夜、リンゴがふと漏らした言葉から生まれました。(語法としてはおかしいけど、リンゴはよく独特の表現をしてたそうで、メンバーはリンゴ語と言ってました。)
ある日家に帰る車の中で、ジョンは、これを映画のタイトルにしようと思ってると、映画監督のディック(後のリチャード)・レスターから聞かされ、次の日の朝に曲を提出し、監督をびっくりさせたというエピソードもあります。
エピソードついでに、1964年3月2日の撮影初日、トゥイッケナム・スタジオで、ジョージは将来の奥様となるパティ・ボイドと出会います。彼女はエキストラとして出演し、食堂車のシーンでその姿を見ることができます。
アルバム収録曲の話に移ります。
まず、なんといってもA面1曲目のタイトル曲「ア・ハード・デイズ・ナイト」!このイントロはGのサスペンデッドコードで、12弦と6弦ギターを何回か重ねて 作ってます。また、歌中もジョージの12弦ギターが小気味よさと厚みを出してますね。ジョージのバッキングギターも無茶苦茶カッコいいです。そして、圧巻は間奏です。低音部のピアノと、ギターのアルペジオのユニゾンで、16分音符3つのフレーズを超高速でやる部分です。極め付けはエンディングでしょう!ポールがDを弾き、そこにギターはFadd9というコードをアルペジオで重ねてます。トニックのGというコードに戻らずに、空に向かって登っていくイメージでフェイド・アウト します。単純なブルース・ロックで終わらせないところがジョンの真骨頂でしょう。ただ、残念なことにサビの部分はジョンが高音が出ないので、ポールが歌ってることです。
次の2曲目「恋する二人」。ここのイントロで、ジョンは大好きなハーモニカを吹いています。ジョージの12弦ギターの小気味よさととてもマッチしてますね。特筆する点は、イントロ・フレーズのトップ音(3拍目ウラ)がコードDにもかかわらず、 F#ではなくブルーノート音Fを微妙に1/4音くらい上げてるところです。ジョンの細かい技と感覚に脱帽です。
次にA面3曲目の「恋に落ちたら」。ジョンが「ジス・ボーイ」に続いて書いたバラードです。「イン・マイ・ライフ」の原型だとも自分で言ってます。「ジス・ボーイ」とともに、クローズド・ハーモニーの名曲です。ポールが上でジョンが下のパートを歌ってますが、ジョンは信じられないハーモニーをつけてます。6度下のハーモニーから始まり、3度下、サビの終わりの7度♭下と多様なハーモニーで、シンプルなメロディーに不思議な奥行と厚みを醸し出してます。 また、曲の構成にもジョンの細かいこだわりを感じます。イントロはキーD♭で始まり、リフの部分はキーDに転調、サビはキーGにもう一度転調し、そして自然にキーDに戻るというジョンならではの展開ですね。個人的に最も好きな曲のひとつです。
A面4曲目の「すてきなダンス」では、ジョンの職人芸であるバッキング・ギターを感じることができます。「オール・マイ・ラヴィング」の3連の正確さに続き、今度は8ビートの曲で16分音符の絶妙なカッティングを披露してます。聴き逃さずに!
A面6曲目の「テル・ミーホワイ」は粋なシャッフルナンバーで、ジョンの大好きな黒人ガールス・グループの曲みたいですね。ここでは、ジョンのファルセットと、やはり絶妙なハーモニーが聴き所でしょう。6度のハーモニーから3度、そして4度、2度、また6度のハーモニーに戻るあたり、モータウンを意識しながら、完璧に超えてしまってます。
A面7曲目の1964年最大のヒット曲「キャント・バイ・ミー・ラヴ」はポールの曲ですので、多くは語りませんがジョンと違ってシンプルな構成ですね。
余談ですが、この曲はアルバム中最もカバーされた曲で、ジャズ・シンガーの大御所エラ・フィッツジェラルドも歌い、1964年5月に小ヒットいたしました。
因みに1964年4月4日付のビルボードチャート(シングル)では、1位が「キャント・バイ・ミー・ラヴ」、2位が「ツイスト・アンド・シャウト」、3位が「シー・ラヴス・ユー」、4位が「抱きしめたい」、5位が「プリーズ・プリーズ・ミー」と5位まで独占し、100位までになんと12 曲がチャート・インしました。
さて、映画には使用されなかったB面ですが、4曲目と5曲目はジョンが作ったウィルソン・ピケットっぽいモータウン風の曲です。
5曲目の「ユー・キャント・ドゥ・ザット」では、ジョンが初めてリードギターを弾いてます。ジョンはこのレコーディングの前に、リッケンバッカーのモデル1996というほっそりしたデザインのギターを買いました。当時かなりの貴重品だったこのギターでリードを弾いてみたかったんでしょう。
さて、ジョンの曲を中心にお話ししましたが、このアルバムにより、ビートルズはアメリカだけでなく、世界中を席巻しました。
イギリスでは、1964年7月10日にEMIからリリースされ、21週間ナンバー1を獲得。アメリカでも、1964年6月26日にユナイテッド・アーティスツからB面の収録曲を変えてリリースされ、14週間ナンバー1を獲得。
アメリカ・キャピトルは、著作権の関係で、映画に使用されなかった3曲を加えた「サムシング・ニュー」というアルバムを1964年7月20日にリリース。9週間ナンバー2を獲得。ユナイテッドのアルバムには当然勝てませんでしたが、それでも1年間に200万枚以上を売り上げました。
実は、弊社の会社名は、このアルバムから名付けました。ロゴもです。一度「サムシング・ニュー」で検索してみてください。
因みに日本では1964年8月1日の映画公開に合わせて、「ビートルズがやってくる来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」のタイトルで、8月にシングル、9月にアルバムが発売されました。初めてイギリス盤と収録曲が同じでした。
さて、次回はジョンが運命の出会いをする1964年8月28日からのお話です。
1964年は世界中にビートルズ旋風が吹き荒れた年でした。
その大きな要因はまず、「抱きしめたい」の大ヒットでしょう。
この曲はイギリスで1963年11月29日に5枚目のシングルとしてリリースされ、1週間後にはナンバー1でチャートに初登場し6週間もその座を守りました。1964年の1月17日までにイギリスだけで150万枚の大ヒットとなりました。
マネージャーのブライアン・エプスタインはアメリカ最大手のキャピタル・レコードに今回こそは彼らを翻意させようと熱心に口説き落とし、ようやくリリースまで漕ぎ着けました。
そして1964年1月13日にシングル・リリースされると、1月25日にはトップ40ヒットとなり、17週ランクされたうち7週間ナンバー1の座を占めました。(日本でも1964年2月5日にシングル・リリースされ、大ヒットしました。)
余談ですが、キャピトルはこの後ビートルズの宣伝費に前代未聞の5万ドルを注いだそうです。
そしていよいよ2月7日にアメリカに初上陸し、2月9日と16日に「エド・サリバン・ショウ」に出演。11日にはワシントン・コロシアムで初めてのアメリカ公演、12日にはカーネギー・ホールでの公演を行い、アメリカ中の若者を虜にしてしまいました。
なんと「エド・サリバン・ショウ」の第1回目の放送は最高視聴率を塗り替える72%を記録しました。番組の放送中は青少年の犯罪も激減したと言われてます。ビリー・ジョエルやブルース・スプリングスティーンもこの番組を観て衝撃を受けたと言ってます。
さて、「抱きしめたい」の曲についてお話しいたします。
この曲は1963年10月17日にアビー・ロード・スタジオでレコーディングされましたが、すでに10月13日のテレビ・ショー「バル・パーネルズ・サンディ・ナイト・アット・ザ・ロンドン・パラディアム」で演奏されてます。
作曲はジョンとポールの共作ですが、モチーフはジョンでコードとリズム作りはポールといった感じの曲ですね。この曲で特筆する点は、ジョンのリズムギターにおけるダブル・ノートのコード・プレイでしょう。リッケンバッカー325の分厚い低音域が、曲に厚みを出してます。
それとなんといっても手拍子ですね!これだけ最初から手拍子を入れた曲は今までなかったと思います。何気ないけど新しい試みです。
因みに、個人的にはB面の「ジス・ボーイ」の方が好きです。(当時の邦題はなんと{こいつ}でした。)
この曲はジョンの作詞・作曲ですが、あきらかにスモーキー・ロビンソンを意識して作ってるのがわかります。でも曲のサウンドとハーモニーはジョンならではの真骨頂が発揮されてますね。ジョンの歌うAメロパートよりもハーモニーのBメロパートの方が主旋律に聞こえるところがにくいです。「恋におちたら」「イン・マイ・ライフ」と並ぶジョンの最高のメロディアスな曲でしょう。
さて次回は、殺人的なスケジュールの中で作ったビートルズの最高傑作「ア・ハード・デイズ・ナイト」についてお話しいたします。