今回は、2枚目のアルバム「ウィズ・ザ・ビートルズ」を中心にお話しします。
このアルバムは、イギリスで1963年11月22日に発売されました。アメリカでは、1964年1月20日に、「ミート・ザ・ビートルズ」のタイトルで発売されました。曲目は少し違いますが。
まず、アルバム1曲目の「イット・ウォント・ビー・ロング」。これは「シー・ラヴス・ユー」の姉妹編的作品で、ジョンの作詞・作曲。「シー・ラヴス・ユー」(7月1日)の1ヶ月ほど後の7月30日にレコーディングされ、「イエー」の掛け合いで曲を引っ張っていきます。
因みに、「シー・ラヴス・ユー」で大々的にフィーチャーされた「イエー・イエー・イエー」というフレーズはビートルズのトレードマークになり、東南アジア政府関係者の間で、ビートルズの曲は「イエー・イエー・ミュージック」と呼ばれてました。
余談ですが、小林亜星が作った「レナウン・イエイエ娘」もこのブームから出来た作品です。
もうひとつ、トレードマークになったのが、「ウー・ウー」の掛け声です。ジョンが大好きだったアイズレー・ブラザーズの「ツイスト・アンド・シャウト」から取ったと言ってます。
ライヴでは、ポールとひとつのマイクに駆け寄って首を振りながら「ウー」と歌うシーンが、この時期よく見られます。前回まで書いたハンブルク時代に、お客にうけるためにありとあらゆることをやってきたジョンのエンタテーナー魂から生まれたものでしょう。
話を戻します。
この「ウィズ・ザ・ビートルズ」にはジョンの2つの大きな思いが感じとれます。
ひとつは、ジャケットの写真です。ジョンとジョージはハンブルク時代のかけがえのない友人アストリット・キルヒヘアが撮った写真と同じ感じにしてほしいと頼みました。そしてハーフシャドウの写真は、スチュへの思いも伝わってきます。アルバムの中でポールが歌う曲が「陽」でジョンやジョージが歌う曲が「陰」であることを、ジャケット写真が意味してるとよく言われますが、本物のアーティストになるという強い気持ちが僕には感じられます。
もうひとつは、モータウンのカバーを3曲も取り入れたことです。60年代前半には初期のロックンロールが担っていた泥臭くもモダンなエッジはR&Bが担うようになってました。ジョンが大好きだったということもありますが、当時のシーンの温度を鋭く嗅ぎ分けてたジョンのセンスの顕れでしょう。ジョンは、自分たちを育ててくれたブラックミュージックに対し多大な感謝の気持ちを持って歌ってました。ですから、単にコピーをするのではなく、そのエネルギーとフィーリングを自分たちの血肉とし、オリジナルの作品と思えるまでに高めたんだと思います。簡単に言うと、取っ付きやすく、耳心地のいい洗練されたロックにし、オリジナルを超えてしまったわけです。ビートルズの方がオリジナルだと勘違いしてた人は結構いると思います。現にこの僕もそうでしたから。
このアルバムでのジョンの音楽的特筆は、「オール・マイ・ラヴィング」(ポールの作品です)での16分音符の3連カッティングギターでしょう。この曲にこれをやる発想がまず凄いと思います。ポールのメロディックなベースの動き(4分音符)との絶妙な絡み具合を堪能してほしいです。
1964年2月9日の「エド・サリバン・ショウ」で演奏してたを観た時、ジョンの熟練したカッティングのうまさに驚いたものです。
もう一つは、B面6曲目の「ナット・ア・セカンド・タイム」のエンディングがマーラーの「大地の歌」と同じエオリア旋法(終止法)であること。このロンドン・タイムスに掲載された内容が、ジョンにはなんのことだかさっぱりわからなかったらしい。ジョンの天才ぶりがわかるエピソードです。
これは、ハーモニー(コード)として、メジャートニックのセブンス、ナインスを使い、そこに半音下げた6度の転調がメロディーに組み込まれている部分を音楽評論家が絶賛したものです。
でもジョンは他の曲でも、こういうことを自然にやってます。
いよいよ次回はビートルズが全世界に爆発的ブームを巻き起こした1964年の話をいたします。
5回のハンブルク遠征の様々なエピソードと事件をお話します。
1960年、当時のマネージャー、アラン・ウィリアムズがハンブルクの箱バンの仕事を取ってきました。
ビートルズが最初に出演したインドラ・クラブは、カイザーケラーが盛況のため、新たにストリップ小屋を改装してオープンしたライブハウスでした。
ただ、近所から騒音の苦情がたくさん来るようになり、閉店。カイザーケラーに出演するようになります。
そこには、交替で出演するバンド、ロリー・ストーム&ハリケーンズがいました。
ドラマーはあのリンゴ・スターです。同じくリバプール出身なので、交流を深めていきます。
競演11日後にして、ジョン、ポール、ジョージ、ハリケーンズからリンゴとウォーリー(ベース)というメンバーで「サマータイム」を録音し、シングル盤を9枚作りました。
おとなしい演奏をマネージャーのアランが客席から「メイク・ア・ショー、ボーイズ」と怒鳴ると、他のお客がドイツ語風に「マック・シャウ」と野次を飛ばすようになりました。
それから、破れかぶれとも言えるくらい、ジョンを中心に派手に演りまくりました。
10月半ばまでの出演契約も12月末まで延長されます。
前回書いた、クラウス・フォアマンとアストリット・キルヒヘア、それにアストリットと同じく写真家のアシスタントをしてたユンゲル・フォルマーもカイザーケラーの常連になり、黒の革の上下や襟なしジャケットなど、デビュー前のビートルズスタイルに大きな影響を与え、アストリットは、ビートルズメンバーの美しいポートレートを歴史に残します。
10月末、カイザーケラーよりも大きなライブスポット、トップ・テン・クラブがオープンし、ここにロンドンから来たトニー・シェリダンが出演してました。
ビートルズは彼のファンだったので、よく見にいくようになり、バックバンドをつとめることもありました。これは契約違反だったので、カイザーケラーのオーナーは腹を立て、11月末までの契約になってしまいます。
ジョージは深夜労働ができない18歳未満であることが警察に知れ、(オーナーが腹いせに通報したらしい)ジョージは国外追放になり、残る10日間は4人で演奏。
ある日ポールとピートは寝泊りしてたバンビ映画館のスクリーン裏で、コンドームを壁に刺して火をつけて遊んでたら、放火として通報され留置場で一晩過ごし、揚句に強制送還処分でロンドンに。
追ってジョンも列車を乗り継いで帰国。みんな落ち込んだ気分でリバプールに戻りました。
1961年、2度目のハンブルクは、ビートルズ(主にジョン)が直接トップ・テン・クラブと契約を取り交わしたものでした。
ポールとピートの強制送還の費用を次の出演料から差し引く契約で、マネージャーのアランには仲介料を払わないという手紙をスチュが書き、当然の結果アランとの関係は切れました。
スチュはすでにハンブルクの芸術大学に入学しており、時折演奏に参加する程度でした。ある日ポールは自分のギターが壊れたのをきっかけに、ジョンからの頼みを聞き入れ、安価だったヘフナーのベースを買い、正式にベーシストとなります。
スチュは、トニー・シェリダンのバックとしてビートルズがポリドールでレコーディングする直前にビートルズから脱退します。
録音時には、スチュは友人として見学してました。
この年に、ユンゲル・フォルマーが撮影した写真が、ジョンのソロアルバム「ロックン・ロール」(75年)のジャケットに使われます。
この時期、アストリットがスチュの髪を、フランスの実存主義者風に前髪をおろした型にカットしました。
ジョンたちはおかしな髪型を笑ってましたが、暫くして自分たちの意志でその髪型に変えます。これがあのビートルズ・カットのきっかけでした。
1962年4月のハンブルク遠征は、前年にマネージャーを買って出たブライアン・エプスタインが仕切りました。
カイザーケラーやトップ・テン・クラブの用心棒だった男が4月13日に開店させた「スター・クラブ」のこけら落しとして呼ばれたのです。
ブライアンの交渉で、ギャラも労働条件も良くなり、マンチェスターからハンブルクまで飛行機で行けるようになりました。
でも残念なことにその凱旋したメンバーをスチュは見ることなく、4月10日に脳溢血で亡くなります。
ブライアンはスター・クラブの初日を見届けた後すぐに帰国し、レコードデビューの売り込みをかけ、ようやくEMIとレコーディング契約を取り付けました。ビートルズは5月31日の出演を終えると、その4日後にアビイ・ロードのスタジオに足を踏み入れます。
1962年10月に「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビュー。でも数か月前から決まってた11月1日からのハンブルク遠征に出発。その前に髪型を頑なに変えなかったピートをやめさせ、リンゴを正式ドラマーとして迎え入れます。
11月14日までの2週間で出演49時間。この2週間は、リバプールで同じショーに出演したことのあるリトル・リチャードと毎日競演。
余談ですが、この頃リチャードのバックでキーボードを弾いていたのが、69年のゲット・バック・セッションで一緒に演奏するビリー・プレストン。
スター・クラブの楽屋で親しくなった友人です。
1962年のクリスマスシーズンが最後のハンブルク遠征となります。12月18日から31日まで。休みは25日のクリスマスのみ。場所は同じくスター・クラブ。13日間で42時間の出演と、相変わらずハードな条件でした。
これで、ハンブルク遠征は終了。3年間にハンブルクで演奏した日数はなんと274日。休みはたったの2日。(キリスト教の祭日だったため)
次にビートルズがハンブルクを訪れるのは1966年。その時はワールドツアーの一環で、5,600人収容のホールを超満員にし、2回の公演を行いました。
自分たちを鍛え、育ててくれたハンブルク、そしてクラウス、アストリット、ユルゲン、1962年に亡くなったスチュというかけがえのない友人たちへの恩返しがここでようやくできました。
ビートルズがビートルズになったハンブルグ時代について話します。
実はビートルズというグループ名で活動を開始したのはハンブルグでのことでした。
57年にジョンがクオリーメンを結成し、ポール加入後、ジョージが58年に加入。学生スキッフルバンドで活動してましたが、60年1月にジョンの友人で画家志望であったスチュアート・サトクリフをベーシストに迎え、臨時ドラマーを加えて数々のオーディションに挑戦し、5月にはバックバンドとしてスコットランド巡業を経験。そのころのグループ名は、シルバー・ビートルズでした。
その後舞い込んできた8月からのハンブルグでの仕事を手にするため、ドラマーにピート・ベストを迎え、世界一のバンドを夢見て旅立ちました。この時、グループ名は「ビートルズ」となったのです。
でも、彼らに用意されていたのは、劣悪な環境としか言いようのない場所でした。
ハンブルグのザンクト・パウリ地区にあるレーバーバーンの北側にある歓楽街でした。最初に出演した「インドラ・クラブ」では1日の休みもなく、平日正味4時間半、土日は6時間も演奏する契約になってました。そして、店のお客も、酔った荒くれ船員や、地元のマフィア、風俗嬢・・・普段の生活でも、酒、ドラッグ、暴力が日常茶飯事の街。
ビートルズはお客に罵声を浴びせられ、窮地に立たされました。
でも、ジョンは発奮します。恥も外聞もかなぐり捨てて、ジーン・ヴィンセントのように飛び跳ねたり、床を転げ回ったり、足が悪いふりをしたりして派手なパフォーマンスを身につけていきました。
お客のどんなリクエストにも応えられるように、次々と新しい曲に挑戦し、ハンブルグ時代に何百曲というレパートリーを保有するようになりました。
また、お店の外で客引きをしたり、レパートリーが底をつけば、どの曲も20分ほどに引き延ばし20回もソロを回すなど、まさに生き残りをかけた壮絶な戦いをしながら、プロとしての腕を磨いていきました。
ある日、カイザーケラーというお店に観客で来ていたイグジス(実存主義の信奉者)の美術系学生、アストリット・キルヒヘアとクラウス・フォアマンは彼らと急速に親交を深めていきました。(のちにスチュはアストリットと恋に落ち一緒に暮らし始め、ビートルズを脱退します。)この二人の影響で、揃いのライラック色のジャケットを脱ぎ捨て、黒い革ジャンとパンツを身につけました。
こうして短期間に売り込みの手腕、パフォーマンス、ルックス、演奏技術を飛躍的に向上させることができました。
「演奏技術を得るために、深夜の十字路で悪魔に魂を売り渡した」と言われる所以です。
この修行時代、下積み時代がなければ、ビートルズはビートルズになれなかったでしょう。
ジョンと楽器について話したいと思います。
ジョンが最初に手にした楽器はハーモニカでした。ミミおばさんの家に来てた学生からもらったハーモニカが気に入って学校に通うバスの中でも吹いていたそうです。その演奏に感激したバスの運転手さんから新しいハーモニカをプレゼントされたエピソードもあります。そして1960年ハンブルグへの初めての遠征の時、立ち寄った楽器屋で1本のブルースハープを買いました。これがホーナーのマリンバンドというもので、「ラヴ・ミー・ドゥー」「プリーズ・プリーズ・ミ」「フロム・ミー・トゥー・ユー」というシングル曲をはじめ、数々の初期の曲に使われました。
そして、ジョンの代名詞ともなった楽器といえば、やはり「リッケンバッカー325」でしょう。
ジョンとギターの出会いから話しますと、前回、1956年のロックン・ロールとの衝撃的な出会いについて話しましたが、この年に通信販売で最初のアコーステイックギター、「ギャロトーン」を手にいれました。これは、母親ジュリアに買ってもらったもので、バンジョーが弾けたジュリアにコードを教えてもらったそうです。
1957年3月に「クオリーメン」を結成してからは暫くアコースティックギターを弾いてましたが、8月に初めて「キャバーン・クラブ」に出演し、エレキギターの大音量が必要になったので、ミミおばさんから頭金を借りて買ったのが、「ヘフナー・クラブ40」です。
その後、1960年にグループ名を「シルバー・ビートルズ」に変え、8月から始まる初めてのハンブルク遠征の前に「ビートルズ」に変わりました。
そしてハンブルグのロット・ホフ楽器店で手に入れたのが、「リッケンバッカー325」です。たまたまクラブのステージでジャズ・ミュージシャンのトゥーツ・シールマンスが、リッケンバッカーを弾くのを見て感激したのがきっかけだそうです。
因みに、この頃トゥーツ・シールマンスはギタリストで、まだハーモニカは吹いてませんでした。
この黒いボディーのショートスケールネックのギターはジョンのトレードマークになったくらい初期の曲にはほとんど使用されました。ショートスケールなので、フレット幅が多少狭く、コードスロークはとても弾きやすかったんだと思います。それと、テンションを得るため、太い弦を張ってたので、硬くてしかもヘビーなサウンドを生み出すことができたわけです。このギターが初期のビートルズサウンドを創ったと言っても過言ではないでしょう。もちろんジョンの強力で正確なカッティングがあったればこそですが。
次に手に入れたのが、「ギブソンJ-160E」です。これは、ハンブルグで共演したトニー・シェリダンが持ってたギブソンES175を「ジャンボ」と呼んで憧れてたので、ギブソンのエレクトリック・ジャンボを注文したら、これが届いてしまったらしい。「エレクトリック・ジャンボ」はJ-160Eの通称だったので。ジョンはこのギターを生涯愛しました。ジョンの全アルバムで使われてます。最初のアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」でもリッケンバッカー以上に頻繁に使われてます。
最後にもっとも気に入ったのが、「エピフォン・カジノES230TD」です。このギターはギブソンES330と同じタイプですが、セミアコのようで実はフルアコのシンラインで、その上Fホールもあるので、生でも結構大きな音がでます。1966年の「リボルバー」以降精力的に使い始めます。
以上の、「リッケンバッカー325」、「ギブソンJ-160E」、「エピフォン・カジノES230TD」はジョンの個性を際立たせ、そしてビートルズサウンドを創った、ジョンの最高の「相棒」たちと言えるでしょう。
「ツイスト・アンド・シャウト」は、ビートルズとして正式デビューする前、ハンブルクでもキャバーン・クラブでも、ライブの最後に必ず演奏する曲でした。どれだけジョンがロックンロールを愛していたか、それだけでもわかるくらいです。
このファーストアルバムで聞き逃してはならないのは、ジョンのギターのカッティングです。最初の「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」から、骨太でしかも小気味よいギターにゾクっとさせられます。これは、ハンブルグ時代から夜通しタフなライブで鍛えあげられた賜物です。最初の頃はアコーステイックでも、会場の雑音に負けない迫力あるサウンドを出してたんですから!デビューの時にはすでに筋金入りのバンドだったわけですね。リズムギター(サイドギター)はあまり注目されませんが、ギターをプレーする人にはジョンの、野太く掻き鳴らしながらも正確でグルービーなギターは痺れるはずです。
話は前後しますが、1956年、ジョンが16歳の時、ロックンロールと衝撃的な出会いをします。それは、エルビス・プレスリーの歌う「ハート・ブレイク・ホテル」でした。その当時のジョンの心の救世主であり、その後のジョンの人生を決定づけたほどぶちのめされたんでしょう。それからは、エルビスはもちろん、ファッツ・ドミノ、バディ・ホリー、カール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイス、リトル・リチャード、チャック・ベリー、ジーン・ビンセント、ラリー・ウィリアムズ等のロックンロールナンバーや、シュープリームス、クッキーズ、シュレルズ、マーヴェレッツ等のガールズ・グループ、ミラクルズ、コースターズ、アイズレー・ブラザーズ等のコーラスグループ、そしてアーサー・アレキサンダー、レイ・チャールズらのブラックミュージックを片っ端からコピーしていきました。これがジョンの礎になり、ビートルズの礎となったわけです。
ジョンはこう語ってます。「ロックンロールより素晴らしいものはないね。」
それは、ロックンロールへの愛と感謝の気持ちを持ち続け、、そして世間の常識や意識をことごとく変革しても尚ロックンロールとともに変化し続け、生き続けたジョンの魂の叫びといっても過言ではないでしょう。
ややもすると、ジョン・レノンは詩人や思想家というイメージを一般的に持たれがちですが、私が最も影響を受け、そしてもっとも敬愛するジョン・レノンは紛れもなく、20世紀を代表する偉大な音楽家です。
その素晴らしさを少しでも伝えられたらと思い、ビートルズのアルバムを通してジョンが残してくれた音楽の貴重な財産を語らせていただきます。
まず、今回は1963年3月22日に発売されたデビューアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」。
そのタイトル曲「プリーズ・プリーズ・ミー」ですが、作詞・作曲ともジョンです。唱歌のようなよい子のメロディー、例えて言うなら「カエルの歌」のようなメロディーをハーモニカとボーカルコーラスそしてオブリガートでのギターのフレーズで今まで聴いたことがないゾクゾクするようなポップスに仕立て上げました。
まず、歌い出しのハーモニーをすべて同じ単音で通す発想は、バロック音楽時代バッハやヘンデルが好んで使った手法を取り入れ、3度フラット、4度、5度と階段を け上がるオブリガートのギターフレーズはブルースっぽいグルーブ感を出して、クラシックと黒人音楽の見事な融合が成されてます。
1962年のデビューシングルA面の「ラヴ・ミー・ドゥー」も収録されてますが、この曲はポールが16歳の時に作ったものです。
ただし、最初のハーモニカと歌い出しのハーモニーのアイデアはジョンです。
ここでも歌い出しのハーモニーは3度の音を抜いてブルージーな雰囲気を醸し出してます。
SIDE1の6曲目の「アスク・ミー・ホワイ」はモータウンの洒落たポップな感じ、スモーキー・ロビンソン風な曲作りを意識的にしてます。
そして、このアルバムのトリを飾る「ツイスト・アンド・シャウト」!
もちろんこの曲はアイズレー・ブラザーズのカバーですが、ビートルズのオリジナルと思ってる人はかなりいると思います。それもそのはず、本家のアイズレー・ブラザーズは全米チャート17位までしか行きませんでしたから。
朝10時からレコーディングを続け、たった1日で60テイク以上録音した最後のテイクがこの曲ですから、ジョンの声はボロボロでしたが、かえってそれが魂を振り絞るように唄うロックン・ローラー ジョン・レノンの歴史に残る名演になったのです。
ここで初めて、弊社の会社名である「Somethingnew」の由来についてお話しさせていただきます。
ホームページのトップのロゴを見て、どこかで見たことがあるなと思われた方はかなりのビートルズファンでしょう。
その通り、1964年(東京オリンピックの年)7月20日にアメリカのキャピトルから発売されたアルバム「Somethingnew」から命名いたしました。
キャピトルはユナイテッド・アーティスツに、映画「ア・ハード・デイズ・ナイト」のサウンド・トラックの権利を譲ってしまい、1964年6月26日に発売されたそのサントラのアルバムが爆発的な大ヒットをするやいなや、慌てて、イギリス盤LP「ア・ハード・デイズ・ナイト」から8曲、イギリス盤EP「ロング・トール・サリー」から2曲、そしてドイツ語バージョンのシングル「抱きしめたい」を収録した「Somethingnew」を発売しました。
権利関係で、大ヒット曲の「ア・ハード・デイズ・ナイト」「キャント・バイ・ミー・ラブ」は入れられず、ましてや、このアルバムで初めて公開する曲は1曲もないのに、意味深なタイトル「Somethingnew」が付けられたのには、実は結構思惑があったようです。
このアルバムはモノラル盤とステレオ盤が同時に発売されました。もちろん収録曲は同じです。当時の超経済大国アメリカの事情とキャピトルのビジネス戦略は別にして、ビートルズマニアにはとても貴重な音源が収録されてます。それは、モノラル盤とステレオ盤ではほとんどの曲のテイクやミックスが違います。また、イギリスのオリジナル盤ともほとんどテイクやミックスが違うので、そこに新しい発見があるのです。結構マニアックな違いなので、ようく聴き比べないとわからないところが逆にマニアの間では伝説のアルバムとなりました。
リスナーに対して「どこが違うかわかるかい?」「どこが新しいかわかるかい?」と問いかけるようなシニカルな態度、「焦って寄せ集めたのではないんだよ」と思わせたい超大手レコード会社のプライドを「Somethingnew」の名前に感じます。
と書くと、私がさも否定的に捉えてるように思われるかもしれませんが、私も何を隠そうビートルズ、特にジョンレノンの信奉者であり、このアルバムは、中身はもちろんそのヒストリーも含め大のお気に入りなのです。
長くなりましたが、これが会社名「Somethingnew」の由来です。扱ってるトランシーバーは正直他社とまったく変わりません。ですが、ご利用されるお客様に「Somethingnew」を与えるために、細やかな工夫とサービスを常に考えております。どこまで伝えられるかはわかりませんが、 お客様の気付きにほんのちょっぴり期待をしつつ、これからも心をこめて対応してまいります。
昨日は1年前の東日本大震災のことを思い、改めて、生かされている自分の幸せと、仕事ができる喜びを噛みしめました。
10年後の2022年にはアナログ電波の無線機は使用できなくなると総務省の通達が一昨年ありましたが、大地震等の非常事態の時、携帯ラジオと同じく、無線機もアナログ波がいかに威力を発揮するかを再認識してほしいと思っております。
弊社はコミュニケーションの一端を担う仕事としてトランシーバーレンタル事業を営んでおりますが、コミュニケーションは「絆」を生み出すものです
「絆」は半分に分かれたものを糸で繋ぐという意味と同時に、半分ずつという人間関係がとても大事なんだと示唆しているように思います。
電波状況が悪くても必死に繋がってようとする姿勢、雑音まじりでも絶対に切れるものかというアナログ波は現場主義、電波状況が悪くなると情け容赦なく切れてしまうデジタル波は官僚主義に例えられるんではないでしょうか。また、昨年の3月11日、携帯電話や一般電話がまったく繋がらない状況も、デジタル回線のひ弱さを露呈しました。
非常時に、雑草のようなアナログ電波が活躍するのは、人間と同じです。これからの非常時に備え、アナログのトランシーバーを学校、病院、老人施設、大型娯楽施設、スタジアムなどに常設で配備することを総務省に提言し、官僚ご都合主義だけで、アナログ波の無線機が廃止になることは食い止めなくてはと、思いをあらたにいたしました。
最近、メディアでも頻繁に取り上げられるようになった「街コン」は出会いの場創出と地域活性化が融合した街ぐるみで行われる大型合コンイベントですが、今や100近い街コン団体があるそうで、毎週土日は各地で物凄い数の街コンが開催されております。
弊社のトランシーバーも少しずつ各地の街コンで活用されるようになってきました。
参加する店舗が大体半径1km以内にあるので、各店舗間の連絡やお客様の誘導、安全管理には最適の通信ツールだと思います。
ただ最近、発生の地である宇都宮市の「宮コン」をはじめ、広島市の「ひろコン」、福島市の「福コン」、新潟市の「潟コン」など3,000人規模のものなど、大規模な街コン競争が行われるようになり、そのうち4,000人、5,000人と人数競争が激化されると、本来の目的である「ふれあい」「コミュニケーション」が希薄になり、また、事故やトラブルが増える危険性があるので、ちょっと心配です。
弊社のトランシーバーが各地で大活躍することはとてもうれしいですし、このような地元有志の方々が中心で行う街興し的・草の根イベントは素晴らしいことと思います。
ですが、ややもするとブームに乗って人数競争に走りがちなので、本来の目的を見失うことなく、長く根付かせてもらいたいと切に願います。
トランシーバーも街コンもコミュケーションという目的は一緒ですから。
ここで、コミュニケーションの言語学的意味を話す気は毛頭ないですが、相手のことをもっと知りたいとか、親しくなりたいとかという気持ちから、発達していったことは確かでしょう。
もちろん、人間同士だけでなく、どの生物界においてもです。(植物にそういう気持ちがあるかは深く追究しないように。)
ただ、人間は言語という最も複雑なコミュニケーション手段を巧みに操れる動物です。複雑なるが故に様々な誤解や問題を引き起こしますが。
その言語という記号の中でも個人の氏名というのは、コミュニケーションの場でとても大事な存在だと思います。なにしろこれがないと、人間社会の場合、主体も客体もまったく訳がわからなくなってしまい、すべてが麻痺状態になります。
ところが、この最重要物が最近はまるで本当に記号のごとく扱われてる感覚を覚えるのです。
へたすると、メールアドレスと同等もしくはそれ以下くらい地位が下がっているように感じます。
メールアドレスで相手が特定できるんで、なくてもなんとかなっちゃうわけですから。
昔は、果し合い(決闘)でも、世の東西問わず、必ず自分の名をしっかり伝え、相手の氏名をしっかり心に刻み、歴史に残そうとする礼儀と思いやりを持ってました。
大袈裟に聞こえるかもしれませんが、弊社では、これがコミュニケーションの原点だと思ってます。
電話応対の時も、自分の名前をしっかり伝え、相手のお名前を会話の中に必ず入れるようにしてます。
初めてのお客様ともすぐに親しく話せるようになるし、事務的・マニュアル的な会話にならなくなりますから。
自分の名前をしっかり伝え、相手の名前もしっかり言うところから始まるトランシーバーというツールはまさにコミュニケーションの原点というか基本を守らせてくれるなかなかにくい奴です。
そう思えば、この仕事も誇り高きものであります。