よこはま物語 その7

  • Sep 28, 2023
  • Daisuke Kobayashi

ナイトクラブ「クリフサイド」

本牧通りから上野町あたりの谷戸を通り、元街小学校前を行くと、1932年(昭和7年)にできた代官隧道(代官坂トンネル)が見えてきます。

このトンネルは道幅が狭く車がすれ違えないので、信号が設置されています。ここを抜けると、左側に東南アジア風の和洋折衷の建物が忽然と現れます。

それが横浜で最初のナイトクラブ「クリフサイド」です。

ナイトクラブ全盛期のクリフサイド
ナイトクラブ全盛期のクリフサイド

クリフサイドは1946年(昭和21年)山手舞踏場という名の社交ダンス場として開業しました。

最初は一部の富裕層しか入れない高級店でしたが、ナイトクラブ全盛期を迎える前、山手の崖の側にあるので、「クリフサイド」と店名を変え、横浜で最初のナイトクラブとして大繁盛しました。

ここは他のナイトクラブと違って、基本ダンスホールなので、従業員の女性ダンサーがお客様とダンスを踊り、飲食を楽しむお店でした。

最盛期には200名ほどの女性ダンサーが登録していたそうです。(注:当時、通常のナイトクラブは女性同伴で来店します。)

クリフサイドの1階ダンスホール
クリフサイドの1階ダンスホール

3階まで吹抜けの約100㎡のダンスフロアはすべて桜の木で、奥のステージにはビッグバンドが入っていました。

「日本のサッチモ」と本家ルイ・アームストロングにも認められた、南里文雄さんは自身のバンド「ホット・ペッパーズ」を率いてここで一世を風靡しました。2階の小宴会場は南里さんを偲んで「トランペット・ルーム」と命名されました。

この建物は木造建築ですが、1階のダンスホールも2階のトランペット・ルームもバーカウンターも当初のまま現役です。

ダンス愛好家の社交場として、結婚披露宴・イベント・コンサート・撮影の会場として利用されています。過去には映画の舞台としてもたくさん使われました。

有名なのは、1952年上映の「上海帰りのリル」そして、1956年上映の石原裕次郎主演「狂った果実」です。

マリンタワー隣にあったナイトクラブ「ブルースカイ」
マリンタワー隣にあったナイトクラブ「ブルースカイ」

山下橋のバンドホテル最上階のナイトクラブ「シェルルーム」
山下橋のバンドホテル最上階のナイトクラブ「シェルルーム」

石原裕次郎といえば、クリフサイドをはじめ、1954年(昭和29年)関内の弁天通り三丁目にできた「ナイトアンドデイ」(青江美奈がレコードデビューする前、ここの専属歌手でした)や、1957年(昭和32年)山下町マリンタワーより早くその隣にできた「ブルースカイ」(因みにマリンタワーは1961年開館です)、そして山下橋現メガドンキーの場所にあった、ホテルニューグランドと肩を並べる老舗の「バンドホテル」最上階(と言っても4階ですが)に1968年にできた「シェルルーム」(キング・オブ・ヨーデルと呼ばれたウィリー沖山さんが支配人でした)という横浜の有名ナイトクラブに毎晩のように来ていたそうです(もちろん映画・テレビの撮影がない日です)。

石原裕次郎とは兄弟のように仲が良かった勝新太郎さんに一度だけブルースカイに連れて行ってもらったことがあります(石原裕次郎とは会えませんでしたが)。僕が22歳の頃、弾き語りをしていた弁天通りのバーに勝新さんは必ず一人で毎週1回深夜か暁に現れました。そこのママが昔ジャズ歌手で、勝新さんとは古くからの友人だったそうです。

まだ入って間もない頃、お客がいない時にママと二人で練習していると、そこに勝新さんがひょっこり現れたんです。

僕は自分の目を疑いました。

ママは僕を紹介すると同時に、勝新さんとママのデュオがいきなり始まり、必死で伴奏を始めた記憶があります。

それから、お店が閉店するまでの約半年間、毎週勝新さんの伴奏をするのが楽しみでした。

たくさんのスタンダードナンバーを勉強させてもらい、たくさんの裏話を聞かせてもらいました。

僕のお師匠さんの一人です。

勝新太郎 スタンダード・ソングを唄う
勝新太郎 スタンダード・ソングを唄う

 

レンタルのはじめの一歩 →
『お申込/お見積』のご依頼を!

レンタルのお申込/お見積