よこはま物語 その8
山下公園前に係留される戦前の豪華客船 氷川丸
横浜港から吹く風は遠い異国の匂いを運んで来る。その横浜港のうつろいを見つめ続けてきたホテルがある。
1927年12月1日に開業したホテルニューグランド。
誕生当時のホテルニューグランド
開業当日のホテルニューグランド
イタリア ルネッサンス様式を取り入れ、東洋と西洋のアールデコのエッセンスを随所に散りばめた本格的な西洋式ホテルです。
名前に「ニュー」が付いているのには訳があります。
Grand Hotel at Yokohama
実は大正12年9月1日の関東大震災で灰燼に帰した横浜のシンボルだったホテルがありました。
「Grand Hotel at Yokohama」。横浜で最初の本格的西洋式ホテル「グランド・ホテル」です。
「ホテルニューグランド」はこのグランド・ホテルのようなランドマーク的存在になってほしいと、横浜市民への公募で決まった名前だそうです。
グランド・ホテルは山下町20番(現在の「横浜人形の家」)に1873年8月に開業しました。新橋~横浜(現在の桜木町)鉄道開通の1年後でした。
築地ホテル館
時代は少し遡りますが、1854年(安政元年)の日米和親条約以降、欧米との通商が盛んになり、往来が頻繁になってきた外国人が宿泊するホテルの建設が急務になりました。
そこで最初にできた本格的な西洋式ホテルが「築地ホテル館」です。
今の築地中央卸売市場の立体駐車場あたりに1868年開業しましたが、1872年の銀座大火で全焼してしまいました。
そのホテルを設計したのが、横浜中区の本町通りに建築設計事務所を開いていたアメリカ人のリチャード・ブリジェンスでした。そしてその彼が「グランド・ホテル」の設計も手掛けたのです。
建設はどちらも清水組(現在の清水建設)でした。
そして、築地ホテル館の初代料理長だったルイ・ベギュー(日本におけるフランス料理の父)がグランド・ホテルの料理長になり、開業時から絶賛されたそうです。彼の元に、1890年に開業した帝国ホテルの初代料理長吉川兼吉など、日本を代表する料理人になった多くの人達が修行に訪れました。
日清戦争・日露戦争・第一次大戦による好景気の中、イギリスとアメリカとの交易が最も盛んになったのが横浜でした。
その玄関口である山下町界隈には国内最大のホテルになったグランド・ホテルに続き、オリエンタルパレスホテル、クラブホテル、ローヤルホテル、ライツホテル、ホテル・プレザントン、ホテル・デ・フランスと、7つの西洋式高級ホテルが次々と建ち並びました。
しかし関東大震災で7つのホテルはすべて全焼してしまいました。
大震災後の復興計画に、再び横浜の象徴となるホテルの建設はマストでした。
そしてオリエンタルパレスホテルに隣接した土地にホテルニューグランドが誕生したのです。
設計したのは、当時まだそれほど有名でなかった渡辺仁。この後、銀座和光(旧服部時計店)、有楽町日劇、上野国立博物館、第一生命館などの設計も手掛けます。そして建設はやはり清水組。
それでは渡辺仁の最高傑作であるホテルニューグランドの芸術性あふれる特徴を見ていきましょう。
2階ロビーへの階段
ホテル正面玄関を入るとすぐ正面に階段があります。開業当時は2階がフロント・ロビーだったためです。
2階に向かう階段には青い絨毯が敷かれて、両側のイタリア製スクラッチタイルが絨毯の青をより際立たせます。
天井には白漆喰で繊細な装飾が施され、正面エレベーターの上部には京都川島織物の綴織「天女奏楽之図」が壁に張られています。その真ん中の時計には寺院で祀られている仏像の背中の「炎」が装飾されています。
2階元フロントとロビー
当時では2階にフロントがあるのはとても珍しかったと言います。
天井からは、東洋風の伽藍の灯籠が吊るされています。
まさに、「東洋に来た!異国に来た!」と外国人に大きなインパクトを与える意匠です。
2階山下公園側ロビー
外観からも印象的だった大きなアーチ窓とベルベットカーテンの間から、山下公園のイチョウ並木と横浜港を眺めることができ、船旅をゆっくり癒せるようにソファが並んでいます。
レインボーボールルーム前のロビー
マホガニーの柱と横浜家具が重厚感を与えてくれます。
レインボーボールルーム
アーチ状の天井に施された装飾は、漆喰職人の最高傑作と評されています。
戦後しばらくは進駐軍のダンスホールになり、見砂直照と東京キューバンボーイズがここから一躍有名になりました。
フェニックスルーム
太い木柱が印象的で、神社のような天井の梁、伽藍のオレンジの光、オレンジ色の絨毯が、デフォルメした日本の神社を思い浮かべさせます。神秘的な日本を表現した部屋です。
ヨーロッパ調の中庭
ここには1952年頃までパームルームというパブの建物がありました。
初代料理長のサリー・ワイルとコックさんたち
パリの四つ星レストランから総支配人になるアルフォンゾ・デュナンと一緒にやってきたのが、初代料理長のワイルでした。元のグランド・ホテルは正式なフランス料理(コース料理)でしたが、彼は堅苦しいマナーに囚われるよりも、食事は楽しみながらいただくものと考えていたので、ドレスコード、酒、たばこを自由にして、パリの下町的雰囲気を醸し出しました。
また、料理もフランスに拘らず、隣国のエッセンスを加えたアラカルトに重点を置いて、たくさんのメニューを作り出し、その中から自由に選んで食べるスタイルへと変えていきました。
グランド・ホテルが「最高級の雲の上のホテル」であったなら、ホテルニューグランドは「人々に愛され、親近感と夢の持てるホテル」に生まれ変わったのです。
ホテルニューグランド発祥の料理にはワイル考案のシーフードドリアの他、2代目総料理長の入江茂忠が開発したスパゲッティナポリタン、そしてプリンアラモードがあります。
余談ですが、野毛の「センターグリル」がナポリタン発祥の地だとする説もあります。
このお店の創業者である石橋豊吉はナポリタンを米兵由来のケチャップを使う「庶民の味」に仕立てあげました。実は石橋氏はサリー・ワイルが経営していた別のホテルでシェフをやっていた関係でニューグランドの入江氏とも交流があり、入江氏からアドバイスももらったそうです。
ナポリタン兄弟のような関係なのでどちらも発祥の地でいいのではないでしょうか。
さて、おそらくワイル氏の料理を味わった有名人はたくさんいると思いますが、中でも、1929年イギリスのグロスター公ヘンリー王子、1931年ダグラス・フェアバンクス、1932年チャップリン、1934年ベーブルース、1937年のダグラス・マッカーサー(2番目の奥様ジーンとの新婚旅行で)が特に有名です。
終戦後、GHQに接収されていたため、サリー・ワイルは復帰できず、母国スイスに帰国しました。
その後は、多くの日本人コックの西欧留学の橋渡しをして「スイス・パパ」と呼ばれるようになりました。
1970年代日本のフレンチブームのきっかけを創ったのもワイル氏だったのです。
1945年8月30日ダグラス・マッカーサー到着前
1945年8月30日厚木飛行場に降り立ったマッカーサーはトレードマークのコーンパイプをくわえ、濃い目のサングラスにノーネクタイという例の姿で、すぐさまホテルニューグランドに向かいました。
戦前日本へは5回ほど訪れたことがあるマッカーサーは親日家であったそうです。
そして自分がまず泊まるホテルはニューグランドと決めていたので、そのホテル周辺も一切爆撃されませんでした。県庁、税関、開港記念会館、バンドホテルなど、戦前からの貴重な建造物は守られました。
そして横浜港沖に停泊する戦艦ミズーリ上で交わされた降伏文書調印式の9月3日までの3泊を過ごした部屋が315号室です。この部屋は「マッカーサーズスイート」と名付けられ、現在は一般客も宿泊できるようになっています。
1Fのバー「シーガーディアン」でバーテンダーと話す大佛次郎
「鞍馬天狗」や「赤穂浪士」で有名な横浜市中区生まれの小説家 大佛次郎は、昭和6年からの10年間「318号室」を執筆のために毎日使用していました。
バー「シーガーディアン」ではピコンいうリキュールをソーダで割った「ピコンソーダ」を愛飲していたそうです。
横浜を舞台にした小説「霧笛」もここから生まれました。
この318号室は「天狗の間」と命名され、一般客でも宿泊できます。
現在のホテルニューグランド
多くの映画や小説の舞台になり、多くの著名人に愛されてきたこのホテルは、大切に磨き上げられた宝石のように深く輝き、今もその毅然とした存在感は変わっておりません。あと4年で誕生から100年を迎えますが、これからもヨコハマのシンボルとしていつまでもそこにあり続けてほしいと心より願います。
横浜に生まれ、横浜を愛する者として。