よこはま物語 その18
その生涯をかけて、ジャズの普及と若いジャズミュージシャンの育成にすべてを注いだ吉田衛(まもる)さんの遺志を継いで、妹の吉田孝子さんと有志一同によって、2012年3月11日、野毛町2丁目94番地にできた「ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館」です。
残念ながら建物の耐震性の問題で、2022年4月10日をもって閉店してしまいました。
昔のちぐさで使っていた看板
昔のちぐさを再現した店内
昔から使っていた椅子
昔から使っていたレコードをかけるターンテーブル
決してDJをやるためではありません。
一枚のレコードが終わるとすぐに次のレコードの音楽を流すためです。
一日中この手作業を吉田さんはコーヒーを淹れながら一人でやっていたんですね!
昔から使っていたアンプ。そして数千枚のLPレコード
ちぐさが戦後再開した時は、もちろんSPレコードやV-ディスク(1943年10月から1945年5月までに米軍で兵士慰問用にリリースしたレコード)しかありませんでした。
昔のお店の看板
2階には柴田浩一さんが造ったこの絵看板のレプリカが飾られていました。
日野皓正さんと吉田衛さんの写真
1949年当時の吉田衛さん(左側)の写真
2階の小部屋
吉田さんはビル・エヴァンスとスタン・ゲッツが特に大好きでした。
1947年~2007年までの「ちぐさ」
吉田衛さんは1913年横浜に生まれ、1933年(昭和8年)20歳の時、野毛町1丁目23番地にジャズ喫茶店「ちぐさ」を開きました。
しかし太平洋戦争が始まると、ジャズは敵性音楽として禁止され、吉田さんも徴兵されて、お店は閉めざるをえなくなりました。
吉田さんは1946年に復員しますが、横浜大空襲でお店も6,000枚のレコードもすべて焼失してしまい、途方に暮れていると、かつてのお店の常連さんやジャズミュージシャン達が隠し持っていたSPレコード千数百枚を譲ってくれ、それに勇気づけられた吉田さんも横須賀の米軍基地や本牧でV-ディスク(前述参照)を必死に蒐集して、1947年お店を再開します。
横須賀基地のEMクラブや横浜の米軍クラブに出演していたピアニストの秋吉敏子、サックスの渡辺貞夫、トランペットの日野皓正は休みの日は一日中ちぐさで貪るようにレコードを聴いて必死に勉強したそうです。
また、売れない時代に米軍クラブで演奏していたクレージーキャッツのメンバーもここでジャズをたくさん吸収しました。
吉田さんは心から彼らを応援していたので、一日中いてもコーヒー1杯のお金しかもらわなかったそうです。
吉田さんは1994年81歳で亡くなられました。
その後お店は、妹の孝子さんと、野毛で「村田屋」という老舗和食屋さんを営業されている藤澤智晴さんを中心とした有志一同で守ってきましたが、地域の開発計画に伴い閉店を余儀なくされ、2007年幕を閉じました。
昔のお店の前でポーズをとる日野皓正さん
昔のお店の前、野毛仲通りを走る人力車
生前、吉田さんがレコードを探している様子
真剣にジャズを聴く神聖な場のようなちぐさの雰囲気が好きでした。
でも吉田さんには話しかけることもできませんでした。
とても残念です。
冒頭に記述した「ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館」では「ジャズの歴史と伝統を大切にし、それを未来につないでいく」ことを使命に、2013年吉田さん生誕100年を記念して、「CHIGUSA Records」というレーベルを設立。
同時に優秀な新人を発掘・表彰する「ちぐさ賞」を制定。
若きジャズミュージシャンの登竜門と称されるようになり、その優勝者はレコードデビューが約束され、これまで8人のアーティストがレコードデビューしました。
「ジャズ喫茶ちぐさ・吉田衛記念館」の跡地に生まれ変わる予定の「ジャズミュージアム・ちぐさ」
前述の藤澤智晴さんを中心とした有志の方々がこのプロジェクトを進めています。
博物館的機能を備えた、ジャズ喫茶のイメージを超えた外装と内部構造を持つ新たなライブハウス兼ミュージアムに生まれ変わるらしいのですが、吉田さんの貫いてきた「ジャズ文化の推進、地域の賑わいの創出、そしてこれからのジャズを支える若い世代への支援」という意志は果たして守られていくのか心配です。
少々道が逸れてしまっている感じがするのですが・・・。
「ジャズミュージアム・ちぐさ」はちぐさ開業90年の2023年3月11日竣工予定でしたが、資金難のため、現在はいつ開業されるか未定です。
吉田さんが天国から「そんな大それたことやめてくれよ」と言っているかも。