よこはま物語 その19
終戦後の食糧難の時代、安くて栄養のあるおいしいものを沢山の人に気軽に食べてもらいたいという思いで、1946年(昭和21年)12月15日、石橋豊吉氏が、大岡川の都橋そば、野毛柳通り入口に開業したのが、「米国風洋食 センターグリル」です。
1872年(明治5年)新橋―横浜(現在の桜木町駅)間に、日本で最初の鉄道が開通したことによって、東京から海外に向かう人、新しい文化を求める人、貿易事業を始める人がこの地区に立ち寄るようになり、国際都市横浜の入口に位置した野毛は、日本人のための下町としてこの頃から栄え始めました。
しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災によって、野毛商店街もほぼすべてが倒壊・焼失となりました。
そして第二次大戦の横浜大空襲によって再び焼野原になったのです。
関内・伊勢佐木町地区は進駐軍に接収され、米軍のかまぼこ型の兵舎が立ち並び、米軍用の飛行場まで造られましたが、野毛地区だけは接収を免れました。
伊勢佐木町に造られた米軍飛行場
終戦直後、野毛はヤミで放出された食料品などを日本人相手に売る露天商が集まる「闇市」になったのです。
戦前から横浜には多くの中国や朝鮮の人達が居住していたので、「戦勝国扱い」になった彼らの名義で食料品、たばこ、アルコールを進駐軍から仕入れて横流しをしていた人たちもたくさんいました。
終戦直後、横浜で一番多くの人が集まり、賑わっていたのが野毛でした。
終戦直後の闇市
国の配給制度はほとんど崩壊していたので、行政も闇市の取引や不法占拠を黙認していました。どの闇市も、そこを取り仕切っていたのは大物ヤクザの組でした。
石橋豊吉氏は、まだほとんどの庶民がお米すらも満足に食べられない時代に、庶民の憧れであったアメリカの味を安く提供したいという強い思いで「センターグリル」を始めました。
ところで、ホテルニューグランドの接収当時、米軍兵士が、茹でたスパゲッティに塩、胡椒、トマトケチャップだけで食べていたのを見ていたニューグランドの2代目総料理長 入江茂忠氏が考案したものが、元祖スパゲッティナポリタンとされています。
戦前にホテルニューグランドの初代総料理長のサリー・ワイル氏が買い取った、すぐ裏の「センターホテル」で石橋豊吉氏は料理人として働いていました。
ですので、姉妹ホテルの入江氏とも交流があり、ナポリタンのレシピを教えてもらうことができたのです。
ニューグランドの生のトマトやトマトペーストを使ったものではなく、トマトケチャップを使った庶民的で安価なものにアレンジするようアドバイスされ、センターホテルの名物メニューとなりました。
そのホテルの名前から「センターグリル」と名付けたそうです。
ケチャップ味の元祖ナポリタンとして今も多くの人達に愛され続けています。
センターグリルのスパゲッティナポリタン
2.2ミリの「ボルカノ」極太麺に具材はハム・玉ネギ・ピーマン、そして少し甘めのケチャップ味。創業当時から変わらぬ味です。
他にもオムライス、チキンライス、ハヤシライス、カレーライス、ハンバーグなど庶民的な洋食の味が楽しめます。
2018年に生まれ変わったセンターグリル
広くなった2階店内
2代目石橋秀樹氏と3代目石橋正樹氏
現在は3代目の石橋正樹氏が店主として切り盛りしていますが、2代目の石橋秀樹ご夫妻も1階のレジ付近にいつもいらっしゃいます。
横浜に来たら是非昭和の香り漂う野毛で、素朴な町の洋食屋さんの味を堪能してください。
センターグリルから柳通りを入って2つめの角にある「旧バラ荘」というバーです。
1949年にバラ荘としてオープンし、今も営業しています。
たまにライブ演奏も行われます。
センターグリルの後は是非ここに寄ってタイムスリップした感覚を味わってください。
昼間から営業していますよ!
それから残念なお知らせですが、「よこはま物語その16」で紹介した野毛の「papa john」が8月に閉店してしまいました。
今は沖縄居酒屋さんになっています・・・。