よこはま物語その29

  • Sep 24, 2025
  • Daisuke Kobayashi

明治期の伊勢佐木町
明治期の伊勢佐木町

伊勢佐木町の地名は、1874年(明治7年)道路改修費用を寄付した伊勢屋中村次郎衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎の屋号・苗字の一部を組み合わせてできたそうです。もちろん諸説ありますが・・・

前年の明治6年から伊勢佐木町では興行場が開かれ、大相撲も催される興行街となり、芝居小屋、寄席などが続々と集まり、1880年(明治13年)には観世物興行場として指定されました。

そして1882年(明治15年)に遊郭が高島町から真金町に再々移転したため、伊勢佐木町は関内から遊郭への通り道となり、大正初期には東京・浅草、大阪・千日前と並ぶ大繁華街へと発展していきました。

この頃、「ザキブラ」「イセブラ」なる言葉も生まれました。

大正中期の伊勢佐木町
大正中期の伊勢佐木町

伊勢佐木町三丁目あたりはその当時賑町といわれ、両国座・勇座・賑座などの芝居小屋が軒を連ね、伊勢佐木町の中でも一番の繁華街になっていました。

両国座は再建後名前を喜楽座に変え再開しますが、関東大震災で再び焼失。翌年の再建後、再び元の賑わいを取り戻します。

1925年(大正14年)には日本で初めてジャズの演奏が、この喜楽座で行われました。松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)率いる天勝一座で、ガーシュインの曲などを演奏した記録が残っています。

喜楽座のちょうど向かい側に、1911年(明治44年)12月、ドイツ人貿易商のリヒァルド・ウェルデルマン氏が日本で最初の洋画封切館である「オデヲン座」を開館しました。

関東大震災で壊滅的な被害を受けましたが、翌年には興行を再開。昭和初期、伊勢佐木町は映画の街として復興し、大繁華街の賑わいが戻ってきました。

当時はまだほとんどが無声映画でしたので、映画に合わせた伴奏をする楽団も重要で、特にオデヲン座の楽団は上手でとても人気が高かったそうです。そういう楽団から後の横浜を代表するナイトクラブやグランドキャバレーの楽団へと繋がっていったのです。

1936年(昭和11年)、定員1,245人の大劇場に改築された「オデヲン座」
1936年(昭和11年)、定員1,245人の大劇場に改築された「オデヲン座」

しかし、太平洋戦争が始まると欧米映画の輸入が厳しく規制され、洋画専門館は大きな打撃を受けます。

そして1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲でほとんどの建物は倒壊してしまいましたが、オデヲン座は無事でした。終戦後は進駐軍に接収され、「オクタゴンシアター」として約10年間運営されました。

進駐軍に接収され「OCTAGON THEATER」になったオデヲン座
進駐軍に接収され「OCTAGON THEATER」になったオデヲン座

仕方なく、オデヲン座の経営者であったクラリネット奏者の六崎市之介氏は、1947年(昭和22年)、曙町に「横浜オデヲン座」を新設しました。

横浜オデヲン座ニュース ケイン号の反乱
横浜オデヲン座ニュース ケイン号の反乱

横浜オデヲン座ニュース 真夜中の愛情
横浜オデヲン座ニュース 真夜中の愛情

1955年11月の接収解除後、残念ながら六崎氏は買戻しができず、松竹映画封切館の「横浜松竹映画劇場」になってしまいました。その後、「横浜ロキシー劇場」と改称され、1973年2月に閉館されました。

現在は全館ドン・キホーテになっております。

昭和30年代には伊勢佐木町周辺に約40もの映画館が建ち並び、当時、日本一映画館の多い街となりました。

その代表的な映画館をいくつかご紹介いたしましょう。

長者町6丁目の交差点にあった「横浜ピカデリー」
長者町6丁目の交差点にあった「横浜ピカデリー」

1947年に「横浜松竹映劇」として開館。前述のオデヲン座の建物に1955年「横浜松竹映画劇場」として移転した後、洋画専門の「ピカデリーシネマ」そして「横浜ピカデリー」となりました。1998年閉館。

日ノ出町駅そば 宮川町2丁目にあった「かもめ座」
日ノ出町駅そば 宮川町2丁目にあった「かもめ座」

1952年に開館し、2002年2月に閉館してしまいました。2~3本立ての名画専門館でした。

若葉町3丁目にあった「日劇」
若葉町3丁目にあった「日劇」

1953年に開館。2~3本立ての洋画専門館でした。2005年2月閉館。

日劇のとなりにあった「名画座」
日劇のとなりにあった「名画座」

1952年に開館。2~3本立ての邦画専門館でした。

洋画は日劇、邦画は名画座という名文句が生まれました。
洋画は日劇、邦画は名画座という名文句が生まれました。

名画座が「ジャック&ベティ」として生まれ変わりました。
名画座が「ジャック&ベティ」として生まれ変わりました。

1991年に名画座は大幅リニューアルを行い「ジャック&ベティ」になりました。

日劇と同じ経営者でしたので、2005年2月、閉館になりそうでしたが、経営母体も変わり、「黄金町プロジェクト」のバックアップもあり、現在も興行が続けられております。

「ジャック」と「ベティ」の2つのスクリーンで洋画・邦画のロードショーを上映。

長者町6丁目にある「横浜シネマリン」
長者町6丁目にある「横浜シネマリン」

ここは1955年に吉本興業が開業した「横浜花月劇場」が前身で、その後1964年に「伊勢佐木シネマ」という名称の映画館になり、1989年「横浜シネマリン」になりました。2014年に休館になりましたが、閉館のピンチを救ったのはなんと一映画ファンの八幡温子さんでした。その年の12月、八幡さんが私財を投入して館内を大リニューアル。見事復活したのです!

今でも名画専門館として運営を続けています。

八幡さんは現在横浜キネマ倶楽部の事務局長をされております。

1947年 日ノ出町駅そばの宮川町2丁目に開館した「光音座」
1947年 日ノ出町駅そばの宮川町2丁目に開館した「光音座」

1947年1月に東宝と新東宝の上映館として開館しましたが、1950年後半から経営会社の大蔵映画が成人映画を自社で製作するようになり、今では日本で唯一といっていいゲイポルノの上映館となっています。

光音座1がゲイポルノ、光音座2がピンク映画専門です。

1989年の改装工事の時に、入口を野毛大通りの横道に移しました。

改装後の「横浜光音座」
改装後の「横浜光音座」

1と2はロビーで繋がっていますが、カウンター・券売機を挟み、男湯・女湯のような構造になっており、行き来はできません。因みに1は女性の入場お断わりです。

現在も元気に興行を続けております。

横浜光音座

光音座の斜め向かい側JRAウインズ横浜のある場所に、1947年(昭和22年)3月に戦後初の市民劇場「マッカーサー劇場」がオープン。その年の5月には隣に「横浜国際劇場」がオープンしました。どちらも1,200人以上入れる大ホールでした。

映画も演劇もコンサートも開催され、連日超満員だったそうです。

横浜国際劇場は、美空ひばりが昭和23年3月8日10才の時、伴淳三郎座長の「東京グループ」の一員として出演した劇場です

淡谷のり子の前座として、笠置シズ子の「東京ブギウギ」を歌って踊って、一躍脚光を浴びました。

その劇場の向かい側に美空ひばりがデビューした頃から通っていた「松葉寿し」が今でもあります。

ここの店主の働きかけで、お店の前に美空ひばり像が建っています。

野毛大通り沿い「松葉寿し」入口にある美空ひばり像
野毛大通り沿い「松葉寿し」入口にある美空ひばり像

伊勢佐木町4丁目のイセザキモールにある伊勢佐木町ブルース歌碑
伊勢佐木町4丁目のイセザキモールにある伊勢佐木町ブルース歌碑

1968年(昭和43年)に青江三奈が歌った「伊勢佐木町ブルース」が大ヒットしました。

青江三奈はブルースの女王になり、伊勢佐木町の名誉会員にもなりました。

その青江三奈は2000年に59歳の若さで亡くなられ、その歌碑と彼女を描いた大きな看板が2001年に設置されました。看板は有志の方々で数年に一度描きかえられています。

横浜で一番活気があった1960年代の伊勢佐木町一丁目入口
横浜で一番活気があった1960年代の伊勢佐木町一丁目入口

映画と芝居と音楽の街そして横浜一活気ある街、伊勢佐木町はもう遠い昔の話かもしれません。

横浜を愛し有名にしてくれた美空ひばりも青江三奈も、そして伊勢佐木町ブルースと同じ年のクリスマスにリリースされ、横浜を最も有名たらしめた名曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」のいしだあゆみももういません。

友達には内緒でしたが、中学生の時いしだあゆみの大ファンでした。

ブルーライトヨコハマ画像
ブルーライトヨコハマ画像

僕が生まれ育った横浜の残り香が感じられる場所もだんだん少なくなってきました・・・

 

 

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