よこはま物語その30

関内の弁天通り三丁目にあった高級クラブ「オリーブ」の前に佇むメリーさん
かつて歌舞伎役者のように顔を白く塗り、貴族のような白いドレスに身を包んだ老娼婦が、ひっそりと横浜中区の街角にいつも立っていました。
本名も年齢も明かさず、戦後50年間、娼婦としての生き方を貫いた一人の女性。
その気品ある立ち振る舞いはいつしか横浜の街の風景の一部になっていました。
人々は彼女を「メリーさん」と呼んでいました。
しかし1995年12月、メリーさんは忽然と姿を消したのです。
彼女がいかに横浜のシンボリックな存在だったか。
その時から横浜の風景が変わってしまったような気がします・・・
一説によるとメリーさんは1921年に岡山県で生まれたそうです。
20歳頃に結婚、自殺未遂の2年後に離婚し、戦後は関西の料亭で仲居さんとして働き、そこで知り合った米軍将校さんと一緒に東京方面に出てきましたが、朝鮮戦争で現地に赴いた彼は戦争終結後、日本には帰ってきませんでした。
残されたメリーさんは1954年から横須賀で進駐軍相手の娼婦を始めました。
気位が高く束縛されるのが嫌だったので、どこの組合にも所属せず一人気ままに街娼をしていました。その当時から中世の貴族が被るような大きな帽子、白いレースのドレス、白いレースの手袋に白い日傘がトレードマークでした。
人々はみんな彼女を「皇后陛下」と呼んでいました。
その後、1961年に横浜に辿り着いたそうです。
「皇后陛下」「白狐様」「クレオパトラ」「きんきらさん」とあちらこちらで噂されるようになりました。
「よこはま物語その24」で紹介した若葉町二丁目にあった伝説のお店「根岸屋」の入口にいつも立っていました。毎日たくさんの米兵がこのお店にやって来ていたので。
ここでも同業者の誰とも口も聞かず自由気ままに商売していました。
因みに根岸屋には様々な娼婦の方がいて、洋パンさんでも白人専門と黒人専門の方に分かれていたそうです。
またオシパンさんという口が聞けない方もいたそうです。
メリーさんは白人専門でした。

横浜に来た当時のメリーさん

横浜に来て暫く後のメリーさん
ベトナム戦争終結後、米兵がいなくなった後は、伊勢佐木町の松坂屋デパートや並びにあった喫茶店の森永ラブ、また新しくできたビルのエントランスでメリーさんをよく見かけるようになりました。

伊勢佐木町「横浜松坂屋」に入るメリーさん

お祭り好きだったメリーさん

僕が20歳頃に演奏していた福富町界隈でもよく会いました。特に1975年頃にできたGMビルのお店で演奏していた時は朝方メリーさんとよく会いました。その頃は「マリーさん」と呼ばれていた気がします。
GMビルのエレベーターの中にいて、お客様が来ると行き先階のボタンを押してあげて、チップをもらっていたこともありました。自分のスーツケースに座って寝てたりイスの上で寝てる姿をよく見たものです。
何故かメリーさんには気軽に声をかけられない雰囲気があり、畏怖の念を感じてました。

朝方GMビルの入口に立つメリーさん

GMビルの2階で仮眠するメリーさん

GMビル奥の通路で眠るメリーさん
その後、関内の方に新しいビルが増え始め、関内方面で見かける機会が増えてきました。
僕が28歳の時初めて就職したディベロッパーの会社が1985年南仲通三丁目に建てたエクセレントⅢでも、徹夜明けで帰る時、エントランスに座っているメリーさんとよく会いました。
その時もまだ畏怖の念を感じていたので、挨拶もできませんでした。
その頃にはもう「メリーさん」と呼ばれていた気がします。
そんなメリーさんにも親切に接してくれる方々がいらっしゃいました。
関内馬車道にあった「アート宝飾」の六川勝仁社長。
メリーさんはお店のエントランスにあるベンチでよく昼寝をしていました。女性社員から気持ち悪いとか他のお客様の迷惑になるとか言われても、メリーさんがいなくなるまで、長年ベンチを使わせてあげていました。
お中元とお歳暮には、メリーさんから必ずタオルが送られてきたそうです。

関内馬車道にあったアート宝飾本店

アート宝飾の六川勝仁社長

アート宝飾本店入口のベンチで仮眠するメリーさん

アート宝飾本店入口のベンチで休むメリーさん
同じく馬車道にあったレストラン「相生本店」の井上圓三社長。
レストラン横にできたティーサロン「new 相生」にメリーさんがお茶を飲みに来ると、他のお客様から同じカップは使いたくないというクレームが入るようになり、井上社長はメリーさん専用の素敵なカップを用意して、スタッフにも気持ちよく笑顔で接するように言い伝えました。
ここにもお中元とお歳暮には必ずメリーさんからタオルが送られてきたそうです。
因みにそのカップは今、五大路子さんが持っています。

関内馬車道にあったレストラン相生本店

相生の井上圓三社長

メリーさん専用のティーカップ
伊勢佐木町の化粧品店「柳屋」のオーナー福長美恵子さん。
資生堂の油分不使用の「練白粉」をメリーさんに薦めた方。
まだ若い頃、夜同業者に追われていたので、2階に匿い泊めてあげたそうです。メリーさんがカバンと袋に持ち物全部入れて持ち歩くようになったのは、一度全財産を盗まれたのが原因だと本人から聞きました。
ここにも毎年お中元とお歳暮の時期にはお土産を持ってご挨拶に来られたそうです。

メリーさんが化粧品すべてお世話になっていた1870年創業の柳屋。
今も伊勢佐木町一丁目、本屋有隣堂の向かいにあります。
福富町にあったクリーニング店「白新舎」オーナー山崎正直・きみ子夫妻。
メリーさんは自分の住まいがなかったので、お店の更衣室を貸してあげていました。服のクリーニングもずっとしてあげていました。
晩年疲れ果てたメリーさんを見るのが忍びなくなり、きみ子さんはメリーさんに郷里に帰ることを薦め、実家に電話をしてあげて、新幹線のチケットを購入し、駅まで送ってあげました。
1995年12月18日に帰郷する前日、メリーさんを泊めて初めていろいろ話をしました。「父君」「弟君」という呼び方やお礼の手紙の達筆さから家柄の良さが伺い知れたそうです。
その他、伊勢佐木町にあった美容室「ルナ」の湯田タツさん、野毛大道芸のマネージャー大久保文香さんもメリーさんと親しくお付き合いのある方々でした。
余談ですが、大久保さんがメリーさんから聞いた話だと、メリーさんから声をかける男性には条件があり、①メガネをかけている人=頭がいい人、②太っている人=お金がある人、③色黒の人=健康的な人だったそうです。

晩年のメリーさん
作家の山崎洋子さんは「天使はブルースを歌う」の中で、メリーさんを登場させています。
戦後、根岸外人墓地に埋められたといわれている800~900体もの「GIベイビー」と呼ばれた混血児を「メリーさんの子供たち」と表現しています。
山手外人墓地はエリート外国人の墓地ですが、根岸外人墓地は無名外国人の墓地です。身内の方が墓参りに来ない、置き去りにされた墓地です。
進駐軍に身を売っていたメリーさんは、進駐軍との間に生まれた混血児のお母さんの象徴だったのです。
素の自分を捨てて、常に別人に成りきって生きていかなければならなかった彼女にとって、あの白塗り化粧の仮面がどうしても必要だったと山崎さんは語っています。

山崎洋子さんのノンフィクション「天使はブルースを歌う」
1991年5月の「横浜開港記念みなと祭国際仮装行列」の審査員として出席していた女優の五大路子さんは、見物人のメリーさんが目に入り、一瞬で心を奪われました。
後日地元の方々、メリーさんをよく知る人から話を伺い、メリーさんのように戦中・戦後を生き抜いた何十万人もの女性の生き様を、日本の戦後史と重ね合わせて描きたいと思い、メリーさんの半生を舞台化する決意で初対面して、了承を得ました。
そして1996年関内ホールで第1回「横浜ローザ」という一人芝居を成功させ、今も続けています。

五大路子の一人芝居「横浜ローザ」

五大路子の一人芝居「横浜ローザ」
最後にメリーさんの大親友であったシャンソン歌手の永登元次郎さんをご紹介いたします。
1938年に台湾で生まれ、戦後神戸で育ち、中学卒業後に上京、仕事がない時期、元来同性愛者だったので、女装して男娼をしていました。
川崎の堀之内から横浜に来てゲイバーを開店。
ようやく少しゆとりができ、日本舞踊や長唄を習うようになりました。
その頃金子由香利のシャンソンに惹かれ、1982年から深緑夏代さんのもとでシャンソンを習い始めます。
そして念願のシャンソニエ「シャノアール」を日ノ出町駅前に開きました。

日ノ出町駅前にある「シャノアール」。
元次郎さんが亡くなった後もシャンソンだけでないライブレストランとして営業を続けています。
そして1991年8月6日、念願のリサイタルを馬車道の関内ホールで行う当日、入口に貼ってあるポスターを見ていたメリーさんに元次郎さんは招待券を渡しました。メリーさんの存在は知っていましたが、声をかけたのはその時が始めてだったそうです。芝居やコンサートも大好きなメリーさんは来てくれてました。
アンコール曲の前に、花束を持ってステージに集まってきたお客様達の後方にメリーさんがいて、プレゼントを元次郎さんに手渡してくれました。
その瞬間会場からは大きな拍手が沸き起こったのです。
それ以来、元次郎さんとメリーさんの交流は深まり、メリーさんに生活費の援助もするようになりました。
メリーさんは気位が高く、現金をなかなか受け取ってくれなかったようで、いろいろ工夫や演技がたいへんだったそうです。
ある日、大久保文香さんがメリーさんと話をしていると急に「私、部屋がほしいの」と弱気なことを言ってきたので、大久保さんは元次郎さんに相談しました。
元次郎さんは必死に行政に掛け合いましたが、住民票のないメリーさんは生活保護のサービスは一切受けられず、最後は山崎きみ子さんの説得で郷里の岡山県津山市に帰られました。
元次郎さんはメリーさんと伊勢佐木町のバーガーキングでよく食事をしました。
ある日メリーさんがつぶやくように「私はパンパンをやっていましてね」と言った時、頭がガーンとなったそうです。
元次郎さんは幼い頃、お母さんと妹さんとの3人暮らしで、お母さんは自分のものだと思っていたのに他の男性と同衾している所を見てしまい、「パンパン」と罵ってしまったのです。
その後家を飛び出しお母さん孝行ができなかったので、メリーさんを通してお母さんに対する贖罪をしていたように思います。
2001年、元次郎さんは入院中の病院から、体に鞭打って、津山市の老人ホームに慰問コンサートに行きます。
そこで初めて素顔のメリーさんと対面します。
元次郎さんは「マイウェイ(岩谷時子訳)」を唄いました。(元々この曲はフランスのシャンソンで、ポール・アンカの作曲ではありません。)
身も心も素の自分に戻ったメリーさんの笑顔は仏様のようでした。
そして元次郎さんの歌声は悲しいまでに美しく聴こえました。

シャンソン歌手 永登元次郎さんは2004年3月 66歳で亡くなりました。

元次郎さんの歌に聴き入るメリーさん

コンサート後の元次郎さんとメリーさん
後を追うようにメリーさんも2005年1月に亡くなりました。
本名「西岡雪子」として。
このお二人が亡くなった後、中村高寛監督のドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」が2006年4月に公開になりました。僕が書いた内容はほとんど「ヨコハマメリー」からの引用です。
この映画は大好きで何回も観ました。横浜にとってメリーさんがいかに大きな存在だったか、まさに戦後横浜の象徴であったことが、改めてわかりました。
メリーさんとは一回も話せずに終わってしまったこと、本当に不甲斐ない気持ちでいっぱいです。
まだの方は是非一度ご覧になってみてください。必見です!
