よこはま物語その34

横浜スタジアム
現在の横浜スタジアムは1978年に開場しましたが、この場所には実は長い歴史があります。
1876年(明治9年)に居留外国人のためのクリケットグラウンドを中央にした「横浜彼我公園」がこの場所にでき、1896年(明治29年)には、このグラウンドで旧制第一高等学校(一高。現・東京大学教養学部)対横浜在住米国人チーム(YCA:横浜カントリー&アスレチッククラブ)の国際野球試合が行われました。
因みに結果は、1回戦29対4、2回戦32対9でいずれも日本チームが大勝したそうです。
1899年(明治32年)には日本で最初のラグビーの国際試合が行われました。前述のYCA対慶應大学チームで、YCAが勝利したそうです。
野球の試合で負けた屈辱を晴らしたわけです。
その後、1909年(明治42年)に公園名を「横浜公園」に改称。
1910年(明治43年)には公園内を日本風の築山林泉型に大改修しました。
1929年(昭和4年)に関東大震災復興事業の一環として「横浜公園球場」が竣工。
こけら落としとして早稲田大学対慶應大学野球部の新人戦が行われ、スタンドには満員の15,000人の観衆が集まったそうです。

1929年(昭和4年)横浜公園球場での早慶野球部新人戦
1934年(昭和9年)には、ニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルース、ルー・ゲーリック率いる米大リーグ・オールスターチームが1931年(昭和6年)に続き2回目の来日をし、全日本代表野球チームと16回もの日米親善試合を行いました。
この横浜公園球場では21対4で米大リーグ・オールスターチームが大勝しました。

野球の神様と呼ばれたベーブ・ルース

横浜公園球場で日本の少年たちと練習風景を見守るベーブ・ルース

ベーブ・ルースとルー・ゲーリック

現・横浜スタジアムの内野コンコースに飾られているベーブ・ルースとルー・ゲーリックのメモリアル・レリーフ
他の球場でも行われましたが、全日本代表野球チームは0勝16敗で一度も勝てませんでした。
ただ、11月20日静岡県草薙球場での試合で打ち立てたピッチャー沢村栄治の不滅の伝説、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックを含むクリーンナップ4連続三振は今でも有名な話です。
当時、沢村栄治はまだ17歳の高校生でした。
沢村栄治はこの年12月、創設された大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)に入団し、1936年(昭和11年)秋から始まったプロ野球リーグで、史上初のノーヒットノーランを達成(生涯3回達成)。
リーグ最多勝の13勝をあげ、チーム優勝に貢献しました。そして翌年1937年(昭和12年)の春シーズン(当時は春・秋の2シーズン制)には24勝、防御率0.81の大活躍で、プロ野球史上初の最高殊勲選手(MVP)に選出されました。
しかし、1938年(昭和13年)に徴兵され、度重なる戦地での手榴弾投擲で右肩を痛め、自慢の剛速球は投げられなくなり、2度目の兵役後に復帰した1943年(昭和18年)には遂に1勝もできず、巨人を解雇されてしまいます。
そして、1944年(昭和19年)10月2日に3度目の召集があり、12月2日乗船していた輸送船が撃沈され、戦死してしまいました。まだ27歳の若さで・・・
1947年(昭和22年)、沢村栄治の背番号14はプロ野球初の永久欠番となり、最優秀投手に贈られる「沢村栄治賞」(沢村賞)が設立されました。

全日本代表野球チームのメンバーに選ばれた17歳の沢村栄治

不滅の大投手 沢村栄治の豪快なピッチングフォーム
1945年(昭和20年)の終戦で、横浜公園球場は駐留軍に接収され、「ゲーリック球場」と命名されました。

ゲーリック球場に改名された横浜公園球場
1931年と1934年に米大リーグ・オールスターチームで来日したルー・ゲーリックは、1939年に史上最年少で殿堂入りを果たした偉大な選手でしたが、1941年37歳の若さで亡くなりました。
翌1942年には、ゲーリー・クーパー主演で「打撃王」というゲーリックの半生を描いた伝記映画も公開されたほど、全アメリカ人にとってはベーブ・ルース以上のヒーローでした。
また、その物静かな性格と紳士的な振る舞いは、来日時多くの日本人もファンにしてしまいました。

鉄人ルー・ゲーリック本人

映画「打撃王」でルー・ゲーリックを演じたゲーリー・クーパー
そんなゲーリックの名を冠した「ゲーリック球場」は野毛の「マッカーサー劇場」とともに、終戦後、横浜のシンボル的存在でした。
そのゲーリック球場で、1947年(昭和22年)日本で最初の女子野球「オール横浜第1回女子野球」が開催されました。

ゲーリック球場で開催された「オール横浜第1回女子野球」

ゲーリック球場でのプロ野球試合開始前の風景
1948年(昭和23年)にはここで日本初のナイトゲームが行われました。
立教大学対慶應大学野球部の試合でした。
後日、巨人対中日のナイトゲームが行われ、2万人の観客が詰めかけたそうです。
試合は3対2で中日が勝ちました。

ゲーリック球場で行われた立教大学対慶應大学野球部の日本初のナイトゲーム
1952年(昭和27年)平和条約締結とともに駐留軍の接収が解除され、横浜市に返還されました。
球場の改修工事が行われ、名前も「横浜公園平和球場」になりました。

ゲーリック球場から横浜公園平和球場へ改名
そしていよいよ1977年(昭和52年)、横浜大洋ホエールズの本拠地となる新球場「横浜スタジアム」の工事が開始されます。
それにともない隣にあった横浜野外音楽堂(通称:横浜野音)もなくなることとなりました。
横浜野音も1929年(昭和4年)に大震災の復興事業で建設されたものです。

横浜野音で演奏するR&Bのバンド「tha MOUE」
向かって一番左のギターを弾いているのが柳ジョージ

1977年の「横浜野音 最後の日」コンサート
カルメン・マキ&OZや柳ジョージ&レイニーウッドも出演しました
1978年(昭和53年)3月31日「横浜スタジアム」は完成し、4月4日に横浜大洋ホエールズ対読売ジャイアンツの公式第1回戦が行われ、地元大洋が4対1で勝利しました。
1993年(平成5年)には、横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに名称変更し、1998年(平成10年)には38年ぶりの日本一に輝きました。
2012年(平成24年)には横浜ベイスターズから横浜DeNAベイスターズに名称変更し、2024年(令和6年)福岡ソフトバンクホークスを破り、1998年以来26年ぶりの日本一になりました。

メインスコアボードとナイター照明が新しくなる前のスタジアム内風景

2015年にはナイター照明を高出力LEDに交換し、2025年8月にはメインスコアボードが大型化されました

現在の横浜スタジアム全景
ウィング席やSTAR SUITESも増設され、収容人数も約34,000人に増えました
今年2026年3月には、横浜スタジアムの前にあった横浜市役所の跡地に大型ホテルがオープンします。
ますます横浜が盛り上がるとともに今年も横浜DeNAベイスターズが大暴れする予感がします。