よこはま物語その40

横浜橋商店街1本裏通りにある金刀比羅大鷲神社(ことひら・おおとりじんじゃ)
横浜港の開港にあたり、開港場を横浜村にすることに反対する外国人を引き付けるため、またオランダ公使から遊女町開設の要請があったので、幕府の外国奉行は横浜港に近い港崎町(みよざきちょう。現在の横浜スタジアムの場所)に遊廓を建設することを計画しました。
そして1859年(安政6年)港崎遊廓(みよざきゆうかく)が誕生しました。
その沼地埋め立てから建設までを請け負ったのが品川宿で遊女屋を営んでいた岩槻屋佐吉で、港崎遊廓で一番の大楼「岩亀楼」のご主人になりました。
岩亀楼は吉原の角海老楼に匹敵するひときわ立派な楼閣で、外国人用の3階建てと日本人用の2階建ての2棟がありました。
「金刀比羅神社」は岩槻屋佐吉が港崎町に祭祀したもので、1872年(明治5年)に遊廓の移転とともに高島町7丁目の海側に遷座され、1882年(明治15年)同じく遊廓の移転で真金町に遷座されました。
「大鷲神社」の方も1872年(明治5年)港崎遊廓が高島町に移転した際、東京の吉原に倣い「おとり様」を勧請し、浅草と同様に毎年11月、商売繁盛を願う「酉の市」が行われるようになりました。現在は金刀比羅神社の相殿に祀られています。

金刀比羅大鷲神社 酉の市

金刀比羅大鷲神社の参道 酉の市
この金刀比羅大鷲神社のある真金町と隣の永楽町を合わせた約2万坪のエリアに1888年(明治21年)永真遊廓が誕生しました。
1958年(昭和33年)の売防法施行まで、横浜一の遊廓として繁栄していました。
桂歌丸師匠はこの真金町で生まれ育ちました。生家は「富士楼」という遊女屋で、女将だった祖母のタネさんは近隣の「ローマ」「イロハ」の女将と合わせて「真金町の三婆」と呼ばれ、ヤクザも道を開けるほど威勢のいい気の強い方だったそうです。

金刀比羅大鷲神社の玉垣に刻まれた桂歌丸師匠の名前

永真遊廓の入口。
吉原もそうですが、どこの遊廓も周囲を塀や堀で囲っていました。

岩亀楼と並び横浜を代表する大楼の一つだった永楽町の「神風楼」(明治38年頃)。
ここは外国人専用の妓楼でした。

「神風楼」は外国人から「ネクタリン」「ナンバー9」と呼ばれていました。

明治時代の永真遊廓風景

大正時代の永真遊廓風景
大正時代の中頃になると遊女屋80軒に娼婦1800人を数えるほど急速に発展しました。また廓内に70軒ほどの屋台が店を並べ、素見客(ひやかし)の休憩所や相場師などの商談の場に使われた店もあり、これが他の遊廓にはない特徴で人気を呼んだそうです。
そして第2次大戦直後、伊勢佐木町周辺には米兵のカマボコ兵舎がたくさん建てられました。
米兵たちが街中で強姦などの問題を起こさないように、風紀を維持する役割をここの遊女たちが担ったのです。
終戦後、「オンリーさん」と呼ばれた遊女がいました。本国に妻を持つ米軍将校の内縁の妻のようなものです。
相手が本国に帰った後、家をプレゼントされた方もいたそうです。
開港時は外国人客の引き寄せのため、戦後は米兵など、外国人客を相手にする遊女が多かったのは横浜の特徴でしょう。
真金町・永楽町には今でも明治から終戦後までの横浜の影の部分を色濃く残しているところがいくつかあります。

永真遊廓の名残を感じさせる建物
今は真金町も永楽町もほとんどマンションになってしまいましたが、金刀比羅大鷲神社には「遊廓」と彫られた石碑が明治時代から建っています。

金刀比羅大鷲神社の一番右端の玉垣に刻まれた「遊廓」の文字