よこはま物語 その2

  • Mar 14, 2023
  • Daisuke Kobayashi

横浜には「チャブ屋」という、主に外国の船乗りを相手にした売春宿がありました。「チャブ屋」とは明治時代に生まれた言葉で、中国語の食べるという意味の「卓袱」(チョフ)と江戸時代からの「茶屋」(色茶屋)と英語の「CHOP HOUSE」(軽食屋)が混ざり合ってできたもの。「あいまい屋」「もぐり屋」といういかがわしい名称から「チャブ屋」に変わっていきました。中でも本牧のチャブ屋は外国人だけでなく、買春だけが目的でない粋な日本人の社交場でもありました。

1858年の通商条約後、函館、神戸、長崎にも存在していましたが、1859年開港後もっとも多くの外国人が居留していた横浜で、この「チャブ屋」が全盛を極めたのは至極当然ではありました。中でも本牧小港に集中していた理由は、本牧十二天社(本牧神社)あたりで外国人の海水浴が大流行し、「海の家」が建ち並ぶようになり、次第に娼館へと形態を変えていったからです。

明治半ば頃には、メリケン波止場に到着した外国人をリキシャマン(人力車夫)が客引きして、本牧に連れて行く仕組みが出来上がり、「あいまい屋」「もぐり屋」から外国人にも伝わる「チャブ屋」という言葉に変わっていき、横浜独自の言葉として定着していきました。本牧のチャブ屋は外国人のアッパークラスが相手で(現石川町あたりの大丸谷にあったチャブ屋は下級船員相手)、1階には洒落たバー・レストラン・ダンスホールがあり、2階以上はホテルという造りになっていました。ここで働く女性たちはもちろんダンスも英語もでき、知性も品性もあったといいます。第1次世界大戦後の好景気で東京からも日本人のモダンなインテリ層やお金持ちが遊びに来るようになり第1次最盛期を迎えます。

1923年の関東大震災で一時壊滅的な状態になりますが、再び昭和初期に第2次最盛期を迎えます。

ここ本牧での逸話ですが、キヨホテル(当時キヨハウス)のすぐそばに住んでいた小説家の谷崎潤一郎が本牧のチャブ屋を舞台にした1924年公開の日活映画「本牧夜話」の脚本を書いています。(同年に浅草のカフェーを舞台にした小説「痴人の愛」も発表していますね。)そしてこのキヨホテルには大正から昭和初期にかけて「チャブ屋街のクイーン」として一世を風靡した、人呼んで「メリケンお浜」という女性がいました。この女性のおかげで、「HONMOKU」という地名が世界中の船乗りに知れ渡るようになりました。

また、1937年に淡谷のり子の唄った「別れのブルース」が大ヒットしましたが、元々の題名は「本牧ブルース」で、本牧のチャブ屋を舞台にした歌詞です。発売元の日本コロンビアが題名だけ変えてしまったのです。淡谷のり子はソプラノ歌手でしたが、作曲した服部良一がシャンソン歌手のダミアのように低音で歌わせたかったので、淡谷のり子は吸ったことのない煙草を一晩中吸い続けしかも一睡もせずにレコーディングしたそうです。こうして日本のブルースの女王が誕生しました。さらに、ジャズ評論家の植草甚一は若い頃、本牧のチャブ屋に何日も泊まり込んでジャズのSPレコードを聴きまくり、ジャズ浸りになったそうです。

しかし、第2次世界大戦中の1943年に産業戦士や戦時徴用工員の施設となり、廃業を余儀なくされました。そして1945年5月の横浜大空襲ですべて焼失。

よこはま物語 その2

終戦後そこに通称ベースと呼ばれた進駐軍の舎宅ができ、現在ゴールデンカップ(グループサウンズのゴールデンカップスが生まれた店)がある裏あたりの本牧2丁目に移って進駐軍兵士相手の慰安所として再開しました。

よこはま物語 その2

よこはま物語 その2

そして1950年に始まった朝鮮戦争のおかげで横浜独自の娼館「本牧チャブ屋」が復活し、最盛期には42軒にまでなりましたが、売春防止法により、1958年チャブ屋は姿を消しました。現在では本牧2丁目も小港3丁目も住宅とマンションが建ち並ぶ平凡な街並みになっています。

 

レンタルのはじめの一歩 →
『お申込/お見積』のご依頼を!

レンタルのお申込/お見積