よこはま物語 その4

  • May 29, 2023
  • Daisuke Kobayashi

よこはま物語 その4

本牧といえば、四角いピザとともにその歴史と文化の創り手となったのは、なんと言っても音楽です。

東京オリンピックの1964年に、京都出身の上西四郎さんが本牧1丁目にオープンしたのが、日本を代表するミュージシャンを数々生んだ伝説のライブハウス「ゴールデンカップ」です。

当時、中華街の加賀町警察署前にあった進駐軍クラブ「ゼブラクラブ」の閉店は深夜0時でした。この時間になると米兵たちがゴールデンカップにどっと押し寄せてきて、朝までジュークボックスのポップスやR&Bで踊り狂ってました。

(この時代は本牧のVFWもイタリアンガーデンもリキシャルームも瑞穂埠頭のスターダストもジュークボックスでした。)

ただ、開店時間から深夜0時までは客もまばらで暇だったので、1966年11月、たまたまお店に遊びに来ていたデイヴ平尾に「この店の専属バンドをやらないか」と上西さんが誘ったのが「ザ・ゴールデン・カップス」誕生のきっかけとなりました。

ザ・ゴールデン・カップス結成当初
ザ・ゴールデン・カップス結成当初

R&Bが得意なデイヴ平尾は喜んで当時のバンド「スフィンクス」ですぐに出演し始めましたが、演奏が物足りなく感じるようになり、ドラムスのマモル・マヌーだけ残してメンバーを変更し、1966年12月3日に「平尾時宗とグループ・アンド・アイ」として再スタートしました。メンバーはデイヴ平尾(ボーカル)・エディ藩(ギター)・ケネス伊藤(ギター)・ルイズルイス加部(ベース)・マモル・マヌー(ドラムス)でした。

ナポレオン党のリーダー小金丸峰夫さんとレディースグループ クレオパトラ党のキャシー中島さん
ナポレオン党のリーダー小金丸峰夫さんとレディースグループ クレオパトラ党のキャシー中島さん

そんな時、ゴールデンカップの常連客で、毎週ダンスパーティーを行っていた「ナポレオン党」と呼ばれる日本で最初の走り屋グループへの取材がありました。(ナポレオン党は暴走族ではなく、カマロやトランザムなどアメ車の改造車を乗り回し、ゼロヨンレースをよくしていました)

ゴールデンカップに来たTBSの取材スタッフはナポレオン党よりも、当時の日本にはいない最高のグルーヴ感と抜群のテクニックを持ったバンドに驚嘆し、すぐ「ヤング720」のディレクターに、「信じられない掘り出し物を見つけた。番組に出演させてほしい!」と熱弁し、当時新人登竜門的なその番組に出演することになったのです。

すぐさま大反響が巻き起こり、当時爆発的に売れ始めていた歌手の黛ジュンがその評判を聞き、所属する東芝レコード(当時東芝音楽工業)の担当者を連れて来店し、猛烈に売り込んでくれたことで最初のシングル「いとしのジザベル」が1967年6月15日にリリースされたのです。

その際、このバンド名ではわかりにくく売れないのではと、ヤング720のデイレクターの発案で「ザ・ゴールデン・カップス」に改名されました。

「いとしのジザベル」は18万枚のヒットを記録し、1968年4月1日リリースの3枚目のシングル「長い髪の少女」は35万枚のセールスを記録。一躍人気グループサウンズの仲間入りをします。

いとしのジザベル
いとしのジザベル

長い髪の少女
長い髪の少女

全盛期のゴールデンカップとザ・ゴールデン・カップス
全盛期のゴールデンカップとザ・ゴールデン・カップス

しかし、彼らはグループサウンズと呼ばれることを嫌い、ブルースロックやR&Bを主体にした独自の音楽を創っていきます。

活動の拠点はゴールデンカップを中心に、もっぱら横浜でした。

そして彼らのもとに当時日本を代表するミュージシャンたちが続々集まってくるようになったのです。

ミッキー吉野、柳ジョージ、アイ高野、林恵文、ジョン山崎も在籍しました。

そして様々な芸能人・俳優・歌手・メディア関係者がこの店にたくさんやってきました。

前述の黛ジュンをはじめ、石原裕次郎、勝新太郎、ユーミン、そして地元の美空ひばり、アン・ルイス、キャシー中島などなど・・・。

実は矢沢永吉も21歳くらいの頃、「ヤマト」というバンドでゴールデンカップに出演していました。オーナーの上西さんによると、まったく人気が出なくてすぐにやめてしまったそうです。

そしてカップスデビュー当時、進駐軍クラブの「ゼブラクラブ」に出演してたのが、萩原健一がいた「ザ・テンプターズ」でした。

ゼブラクラブ

ゼブラクラブ
ゼブラクラブ

その萩原健一もなくなり、カップスに在籍していたメンバーのデイヴ平尾、ルイズルイス加部、ケネス伊藤、マモル・マヌー、アイ高野、柳ジョージも亡くなりました。

現在のゴールデンカップ
現在のゴールデンカップ

今や、ゴールデンカップはカラオケが歌えるレストランバーです。うれしいことに食事のメニューはほとんど変わっておりません(因みにここは昔からピザは丸いものと決まってるそうです。上西さん頑固なので)。今でもたまにライブを行っていますが、悲しいくらい客は少なく、壁に飾ってある昔の写真と亡くなったメンバーの写真が余計にしんみりとさせます。

現在、上西さんもまったく店に姿を見せなくなり(もう90過ぎですから)、1976年頃からピアノの弾き語りとバーテンをやっていた中田正明さん(通称中ちゃん)も2、3年前に亡くなりました。

オーナーの上西四郎さん
オーナーの上西四郎さん

中田正明さん
中田正明さん

僕は1976年から本牧元町に住んでいたので、演奏の帰りはいつも夜中ここに寄り、中ちゃんにお世話になってました。温厚な人柄で、僕だけでなく横浜の多くのミュージシャンがお世話になった方です。

今改めて、僕が若造の時に男のかっこいい生き方とロック魂を教えてくれたカップスの皆さん、そして上西さんと中ちゃんに心から感謝の気持ちを伝えたいです。

一人だけ現役のもうすぐ76歳になるエディさんに心からエールを贈ります。いまだにエディさんのアタック音には痺れます。

エディ藩さん
エディ藩さん

 

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