

本牧ふ頭入口あたりにある「USS シーメンスクラブ」
1986年10月5日からテレビドラマとして始まり、2024年に公開された第8作の劇場映画まで、約40年近くロングラン・ヒットを続けている「あぶない刑事(デカ)」は、横浜の様々な場所でロケが行われました。その聖地と呼ばれているお店をいくつかご紹介いたしましょう。
まずは、タカこと鷹山敏樹(舘ひろし)とユージこと大下勇次(柴田恭平)が刑事として所属する、神奈川県警港警察署(実在しません)の近く、本牧ふ頭入口あたりにある「USS シーメンスクラブ」です。
二人がビリヤードをやるシーンとバーカウンターで飲んでいるシーンを思い出します。
ここの正式名称は「UNITED SEAMEN’S SERVICE(略してUSS)」で、通称が「シーメンスクラブ」です。
1942年に、当時の大統領フランクリン・ルーズベルトの妻エレノア・ルーズベルトの発案によって設立された船員向けの福祉施設です。ニューヨークに本部があります。
横浜には1947年頃山下町にできて、中区役所の向かい側に移転した後、1974年現在の本牧に移りました。本牧に移ってからは一般の日本人も利用できるようになりました。
バー・レストランはもちろん、ビリヤードやダーツなども利用できます。以前はピンボールマシンも両替所もありました。
外にはテニスコートもありました。
今は本牧ふ頭の港湾関係者用のランチ営業だけで、夜はほとんど営業していません。





30年ほど前までは深夜まで営業していて、外国人の利用者の方が多く、まさにアメリカという感じのお店でした。


今もバーカウンターとビリヤード台は昔のまんまです。

30年ほど前のビッグサイズ・ハンバーグ

今もこの値段でハンバーグステーキセットが食べられる!(もう少し値上がりしてますが)

以前よりもだいぶ小さくなりました・・・
続いて、やはり港警察署から歩いていけるY.C.C(横浜クルージングクラブ)です。

ここは新山下の倉庫街の突端にあります。
「Tycoon」という大型アジアンレストランの跡地に2022年オープンした話題のイタリアン「Re:Journal」の先です。
ベイブリッジが一番近くに見えるレストランが2階にある会員制のヨットクラブです。
1977年に、岡本造船所の社長 岡本豊氏が工場を改装して2階に「ハーバービューレストラン」をオープンし、同年にY.C.Cを設立いたしました。
ハーバービューレストランで、タカとユージが浅野温子演じる少年課の真山薫にランチを奢ってもらうシーンを思い出します。

船内をイメージした内装で木材の床がたまらなくいい感じです。

窓から見えるベイブリッジも最高です。

Y.C.Cすぐ下の桟橋からベイブリッジを望む

Y.C.C会員のヨットたちがすぐ隣に停泊しています

ここから見る夕焼けは絶景です!
さぁ、最後に東神奈川駅から歩いて6分ほどの、米軍施設「横浜ノース・ドック」入口の瑞穂ふ頭にあるバー「スターダスト」と「ポーラスター」をご紹介いたしましょう。
タカとユージがバーで飲むシーンには一番多く使われた場所です。




バー「スターダスト」は1954年に林寛氏が開業し、息子さんの林彰男氏がマスターになってしばらく後に「ポーラスター」も経営するようになりました。
現在ポーラスターは一般営業は行ってなく、貸切営業のみです。(※ご利用したい場合はスターダストに連絡を!)

1954年オープン時からまったく変わっていないスターダストの内観。床も壁も天井もそのまんま。船内を感じさせます。

オープン時からのジュークボックスはさすがに新しいSEEBURG社製のものに変わってました。

ポーラスターの内観もとっても洒落ています!
舘ひろしと柴田恭平が元気なうちに、もう1本劇場公開されるかもしれませんね!
その時までご紹介した聖地のお店も元気に営業していてほしいと心から願っています。
日頃よりサムシング・ニューのトランシーバーをご利用いただき、誠にありがとうございます。
沖縄県でのトランシーバーご利用の場合、ご納品・ご返却には航空貨物便をご利用いただいておりますが、この2026年1月よりリチウム電池を含む製品の航空輸送に関する国際基準の強化に基づき、沖縄県からのご返却について航空貨物便を利用することができなくなりました。
このため、返却は船便となり、弊社への到着(返却確認)が2週間前後(悪天候の場合は3週間ほど)かかることになってしまいました。
今まで日本全国どこでご使用の場合も同じレンタル価格でご提供させていただいておりましたが、今後のお申し込み分より、沖縄県でのご使用のみ下記価格に改訂させていただきます。

※上記の価格は税別です。
※往復の送料は現状のままで変更ございません。
※航空機への手荷物での機内持込みは可能です。
沖縄県から航空機手荷物にてお持ち帰っていただく場合、レンタル価格は通常料金で問題ございません。
ご相談させてください。
何卒ご理解くださいますよう、よろしくお願い申し上げます。
2026年2月12日
株式会社サムシング・ニュー
代表取締役 小林 大介

横浜スタジアム
現在の横浜スタジアムは1978年に開場しましたが、この場所には実は長い歴史があります。
1876年(明治9年)に居留外国人のためのクリケットグラウンドを中央にした「横浜彼我公園」がこの場所にでき、1896年(明治29年)には、このグラウンドで旧制第一高等学校(一高。現・東京大学教養学部)対横浜在住米国人チーム(YC & AC:横浜カントリー&アスレチッククラブ)の国際野球試合が行われました。
因みに結果は、1回戦29対4、2回戦32対9でいずれも日本チームが大勝したそうです。
1899年(明治32年)には日本で最初のラグビーの国際試合が行われました。前述のYC & AC対慶應大学チームで、YC & ACが勝利したそうです。
野球の試合で負けた屈辱を晴らしたわけです。
その後、1909年(明治42年)に公園名を「横浜公園」に改称。
1910年(明治43年)には公園内を日本風の築山林泉型に大改修しました。
1929年(昭和4年)に関東大震災復興事業の一環として「横浜公園球場」が竣工。
こけら落としとして早稲田大学対慶應大学野球部の新人戦が行われ、スタンドには満員の15,000人の観衆が集まったそうです。

1929年(昭和4年)横浜公園球場での早慶野球部新人戦
1934年(昭和9年)には、ニューヨーク・ヤンキースのベーブ・ルース、ルー・ゲーリック率いる米大リーグ・オールスターチームが1931年(昭和6年)に続き2回目の来日をし、全日本代表野球チームと16回もの日米親善試合を行いました。
この横浜公園球場では21対4で米大リーグ・オールスターチームが大勝しました。

野球の神様と呼ばれたベーブ・ルース

横浜公園球場で日本の少年たちと練習風景を見守るベーブ・ルース

ベーブ・ルースとルー・ゲーリック

現・横浜スタジアムの内野コンコースに飾られているベーブ・ルースとルー・ゲーリックのメモリアル・レリーフ
他の球場でも行われましたが、全日本代表野球チームは0勝16敗で一度も勝てませんでした。
ただ、11月20日静岡県草薙球場での試合で打ち立てたピッチャー沢村栄治の不滅の伝説、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックを含むクリーンナップ4連続三振は今でも有名な話です。
当時、沢村栄治はまだ17歳の高校生でした。
沢村栄治はこの年12月、創設された大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)に入団し、1936年(昭和11年)秋から始まったプロ野球リーグで、史上初のノーヒットノーランを達成(生涯3回達成)。
リーグ最多勝の13勝をあげ、チーム優勝に貢献しました。そして翌年1937年(昭和12年)の春シーズン(当時は春・秋の2シーズン制)には24勝、防御率0.81の大活躍で、プロ野球史上初の最高殊勲選手(MVP)に選出されました。
しかし、1938年(昭和13年)に徴兵され、度重なる戦地での手榴弾投擲で右肩を痛め、自慢の剛速球は投げられなくなり、2度目の兵役後に復帰した1943年(昭和18年)には遂に1勝もできず、巨人を解雇されてしまいます。
そして、1944年(昭和19年)10月2日に3度目の召集があり、12月2日乗船していた輸送船が撃沈され、戦死してしまいました。まだ27歳の若さで・・・
1947年(昭和22年)、沢村栄治の背番号14はプロ野球初の永久欠番となり、最優秀投手に贈られる「沢村栄治賞」(沢村賞)が設立されました。

全日本代表野球チームのメンバーに選ばれた17歳の沢村栄治

不滅の大投手 沢村栄治の豪快なピッチングフォーム
1945年(昭和20年)の終戦で、横浜公園球場は駐留軍に接収され、「ゲーリック球場」と命名されました。

ゲーリック球場に改名された横浜公園球場
1931年と1934年に米大リーグ・オールスターチームで来日したルー・ゲーリックは、1939年に史上最年少で殿堂入りを果たした偉大な選手でしたが、1941年37歳の若さで亡くなりました。
翌1942年には、ゲーリー・クーパー主演で「打撃王」というゲーリックの半生を描いた伝記映画も公開されたほど、全アメリカ人にとってはベーブ・ルース以上のヒーローでした。
また、その物静かな性格と紳士的な振る舞いは、来日時多くの日本人もファンにしてしまいました。

鉄人ルー・ゲーリック本人

映画「打撃王」でルー・ゲーリックを演じたゲーリー・クーパー
そんなゲーリックの名を冠した「ゲーリック球場」は野毛の「マッカーサー劇場」とともに、終戦後、横浜のシンボル的存在でした。
そのゲーリック球場で、1947年(昭和22年)日本で最初の女子野球「オール横浜第1回女子野球」が開催されました。

ゲーリック球場で開催された「オール横浜第1回女子野球」

ゲーリック球場でのプロ野球試合開始前の風景
1948年(昭和23年)にはここで日本初のナイトゲームが行われました。
立教大学対慶應大学野球部の試合でした。
後日、巨人対中日のナイトゲームが行われ、2万人の観客が詰めかけたそうです。
試合は3対2で中日が勝ちました。

ゲーリック球場で行われた立教大学対慶應大学野球部の日本初のナイトゲーム
1952年(昭和27年)平和条約締結とともに駐留軍の接収が解除され、横浜市に返還されました。
球場の改修工事が行われ、名前も「横浜公園平和球場」になりました。

ゲーリック球場から横浜公園平和球場へ改名
そしていよいよ1977年(昭和52年)、横浜大洋ホエールズの本拠地となる新球場「横浜スタジアム」の工事が開始されます。
それにともない隣にあった横浜野外音楽堂(通称:横浜野音)もなくなることとなりました。
横浜野音も1929年(昭和4年)に大震災の復興事業で建設されたものです。

横浜野音で演奏するR&Bのバンド「tha MOUE」
向かって一番左のギターを弾いているのが柳ジョージ

1977年の「横浜野音 最後の日」コンサート
カルメン・マキ&OZや柳ジョージ&レイニーウッドも出演しました
1978年(昭和53年)3月31日「横浜スタジアム」は完成し、4月4日に横浜大洋ホエールズ対読売ジャイアンツの公式第1回戦が行われ、地元大洋が4対1で勝利しました。
1993年(平成5年)には、横浜大洋ホエールズから横浜ベイスターズに名称変更し、1998年(平成10年)には38年ぶりの日本一に輝きました。
2012年(平成24年)には横浜ベイスターズから横浜DeNAベイスターズに名称変更し、2024年(令和6年)福岡ソフトバンクホークスを破り、1998年以来26年ぶりの日本一になりました。

メインスコアボードとナイター照明が新しくなる前のスタジアム内風景

2015年にはナイター照明を高出力LEDに交換し、2025年8月にはメインスコアボードが大型化されました

現在の横浜スタジアム全景
ウィング席やSTAR SUITESも増設され、収容人数も約34,000人に増えました
今年2026年3月には、横浜スタジアムの前にあった横浜市役所の跡地に大型ホテルがオープンします。
ますます横浜が盛り上がるとともに今年も横浜DeNAベイスターズが大暴れする予感がします。


京浜急行「神奈川駅」から歩いて5、6分の台町にある、160年以上続く横浜で最も歴史のある料亭「田中家」。
横浜で現存する唯一の料亭です。
田中家のあるこの辺りは、むかしから神奈川台町と呼ばれ、海沿いの景勝地として広く知られていました。
江戸時代には、東海道五十三次の中の、日本橋から数えて、品川、川崎に続く第三番目の「神奈川宿」として栄えました。最盛期にはおよそ1,300軒もの本陣、宿、茶屋が軒を並べていたそうです。
海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。
その様子は、安藤(歌川)広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれています。
坂の上から三軒目の「さくらや」という旅籠が「田中家」の前身です。

幕末の文久三年(1863年)に、初代の晝間弥平衛がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしました。
その少し前の安政六年(1859年)に横浜開港が決まり、各国の領事館が次々とこの辺りにも置かれました。また多くの外国人が商館を構えるなど、横浜はこのあたりから現在の山下公園までを中心に国際都市として発展していきます。
運よく田中家の目の前に米国領事館が作られたことにより、多くの外国人そして日本の政財界の著名人が接待や会食にこの田中家を使うようになりました。
明治時代には、田中家は1200坪の広さを誇り350人以上の使用人をかかえる横浜で一番大きい料亭となりました。

明治の頃は、田中家の下まで船でやってくるお客様もいたし、部屋から釣り糸を垂らすお客様もいたそうです。
逸話として、田中家は西郷隆盛と高杉晋作が討幕の計画を練った場所でも知られています。また、明治時代の常連客の中には伊藤博文、大山巌、乃木希典、夏目漱石、菊池寛、勝海舟らの名だたる人物もいたそうです。


1874年(明治7年)から2~3年間、勝海舟の紹介で、坂本龍馬の妻であったお龍(おりょう)が仲居さんとして働いていました。英語が話せたので、外国人の接客に活躍したといわれています。

坂本龍馬の妻お龍

坂本龍馬が書いたお龍への手紙

坂本龍馬が書いたお龍への手紙の現代語訳
それでは、前回の隣花苑同様、田中家の素晴らしいお料理と器をご堪能ください。














田中家五代目女将 平塚あけみさん

五代目女将は三味線を弾いてお客様をお出迎えすることもありました。

田中家六代目女将 晝間貴子さん
現在は、平塚あけみさんがご高齢のため、六代目の晝間貴子さんがお店を切盛りしています。
料亭と聞くと敷居が高くて入りにくいですが、今は割烹料理店に変わりましたので、誰でも気軽に入れるようになりました。皆さんも新年会などに利用してみてはいかがでしょうか。
貴重な写真や絵画も見れますよ!


前回紹介いたしました三溪園入口脇の道を右に曲がり、道なりにしばらく歩くと、「隣花苑」という表札がある黒い門が見えてきます。その中に入ると・・・


ここは600年以上前の足利時代に建てられた古民家を、原三溪が長女春子のために昭和5年に移築したもので、西郷健雄と結婚した後も約30年間自宅として使用していました。
春子が亡くなった後、春子の長男健一郎の嫁である西郷俊子が一大決心をして日本料理のお店に改装し、1963年「隣花苑」がオープンしたのです。
「隣花苑」とは三溪が好んだ「隣花不妨賞」(隣花、賞するを妨げず)という漢詩に由来しているそうです。
「花というのは垣根を高くせずみんなで愛でよう」という意味で、一年を通じて花を楽しみながら、食事ができる場所にしたいという俊子の願いが込められたお店です。
そしてこのお店には料亭や割烹のような板前さんはいません。原家に代々伝わってきたお客様をもてなす家庭料理なんです。
俊子が亡くなった後は、祖母の春子に可愛がられた孫の西郷槙子が2代目女将として頑張ってきましたが、建物の老朽化が進み、保全のため大規模な修復工事が必要となったので、残念ながら、2020年8月2日をもって閉店となってしまいました。
それではもう見れないかもしれない隣花苑の中を覗いてみましょう。






次に隣花苑のコース料理をご紹介いたしましょう。
原家に代々伝わる見事な器もご堪能ください。









これは原三溪が自ら考案した「三溪そば」です。
今でも三溪園の外苑にある「待春軒」で食べられますよ!





隣花苑2代目女将の西郷槙子さん
1976年、31歳の時から隣花苑でお母様と一緒に働くようになり、2006年にお母様が亡くなられた後、2代目女将になりました。
初めて訪れた時にも我が家に来たお客様のように気さくに話をしてくれたのを覚えています。背筋がピンと伸びて物腰の柔らかい笑顔が素敵な方でした。
お祖母様お母様そして槙子さんにも、日本の美を心から愛した三溪翁の精神が脈々と受け継がれてきたのでしょう。

中区本牧三之谷にある三溪園
三溪園は、17.5haの敷地に国の重要文化財12棟、横浜市指定有形文化財3棟を含む17棟の貴重な日本建築が配置されている庭園で、実業家で茶人の原富太郎によって造園され、1906年(明治39年)5月1日より外苑部分の一般公開が始まりました。
原富太郎の茶道の号である三溪から、「三溪園」と名付けられました。

三溪園の大池と旧燈明寺三重塔
原富太郎の養祖父 原善三郎は1862年(文久2年)中区弁天通に生糸売込商「亀屋」を開業。
後に「原商店」と改め、一代で横浜屈指の生糸取扱い業者となりました。
善三郎は生業のかたわら、銀行頭取・横浜市初代市会議長・衆議院議員・貴族院多額納税議員としても活躍。
1868年(明治元年)三溪園一帯の土地を購入し、別邸として整備しました。
善三郎は明治20年頃、この土地の山上に別荘「松風閣」を建てましたが、残念ながら関東大震災により、全壊してしまいました。
現在は1964年(昭和39年)に建てられた展望台になっています。
因みに、本邸のあった野毛山は現在野毛山公園になっています。
原富太郎(旧姓 青木)は岐阜県の出身で、東京専門学校(現 早稲田大学)卒業後、跡見女学校の教師を務め、そこでの教え子であった原矢寿(善三郎の孫娘)と1892(明治25年)年に結婚し、原家に入りました。
1900年(明治33年)原商店を原合名会社に改め、生糸の輸出業を開始。
三井物産などに並ぶ5大生糸輸出業者になり、群馬の富岡製糸場をはじめ、3製糸場を三井家から譲り受け、先代以来の埼玉・渡瀬の工場と合わせ4製糸工場を経営。
また、いくつもの銀行の頭取・取締役・相談役も歴任しました。

原富太郎(原三溪)
実業家の富太郎(三溪)は日本の近代美術史に特筆される希代の美術品収集家でもあり、日本や中国の古美術品(書画や茶道具)を何千点も集めるとともに、同時代の画家 横山大観、下村観山、安田靫彦、今村紫紅、小林古径、前田青邨らの作品を購入したり、生活費を援助したり、新進の美術家たちを育てたパトロンでもありました。
また、自ら絵筆をとることを無上の楽しみとした美術家であり、そして作庭、建築、茶の湯をこよなく愛したスケールの大きい数奇者でもありました。

三溪園の内苑の草花を愛でる原富太郎(三溪)
富太郎(三溪)は1939年(昭和14年)に71歳で亡くなりました。
私財を投じて作り上げた三溪園は、関東大震災の時に数棟の建物が損壊し、第二次世界大戦時の横浜大空襲でも大きな被害を受けましたが、1958年(昭和33年)建物・庭園の復旧工事が終了し、現在は公益財団法人三溪園保勝会により保存・管理され、外苑も内苑も一般公開されています。
これからも多くの人に愛される日本庭園として、いつまでも残っていてほしいと心から願っています。
それでは、2007年に国の名勝に指定された三溪園の素晴らしい古建築物を見ていきましょう。

鶴翔閣(横浜市指定有形文化財)
1902年(明治35年)三溪が外苑に自らの住まいとして建て、交流のあった文化人や政財界人そして育てた画家たちが多く出入りした場所としても知られています。
現在は1日1組限定の結婚式場として使用されています。

鶴翔閣の結婚式

旧燈明時寺三重塔(重要文化財)
室町時代の1457年(康正3年)に京都の木津川市の燈明寺に建てられた塔。
1914年(大正3年)外苑の山上に移築されました。

旧矢箆原家住宅(重要文化財)
江戸時代後期に飛騨の白川郷に建てられた合掌造りで、1960年(昭和35年)外苑に移築されました。
園内にある歴史的建造物の中で唯一内部を見学できます。屋内には飛騨地方の民具が展示され、いろりでは毎日薪がくべられています。黒光りした柱や煙の匂いが昔の生活を彷彿とさせてくれます。
現存する合掌造りでは最大級の民家です。

臨春閣(重要文化財)

臨春閣(重要文化財)
江戸時代の1649年(慶安2年)に、紀州徳川家初代藩主の頼宣が和歌山の紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘。
1917年(大正6年)内苑に移築されました。

聴秋閣(重要文化財)
江戸時代の1623年(元和9年)に、京都二条城内に建てられた、徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築。
1922年(大正11年)内苑に移築されました。

聴秋閣から三重塔を望む
晩秋の三溪園は素晴らしい紅葉を愛でることができます。
是非、今週来週あたり出かけてみてはいかがでしょうか!

関内の弁天通り三丁目にあった高級クラブ「オリーブ」の前に佇むメリーさん
かつて歌舞伎役者のように顔を白く塗り、貴族のような白いドレスに身を包んだ老娼婦が、ひっそりと横浜中区の街角にいつも立っていました。
本名も年齢も明かさず、戦後50年間、娼婦としての生き方を貫いた一人の女性。
その気品ある立ち振る舞いはいつしか横浜の街の風景の一部になっていました。
人々は彼女を「メリーさん」と呼んでいました。
しかし1995年12月、メリーさんは忽然と姿を消したのです。
彼女がいかに横浜のシンボリックな存在だったか。
その時から横浜の風景が変わってしまったような気がします・・・
一説によるとメリーさんは1921年に岡山県で生まれたそうです。
20歳頃に結婚、自殺未遂の2年後に離婚し、戦後は関西の料亭で仲居さんとして働き、そこで知り合った米軍将校さんと一緒に東京方面に出てきましたが、朝鮮戦争で現地に赴いた彼は戦争終結後、日本には帰ってきませんでした。
残されたメリーさんは1954年から横須賀で進駐軍相手の娼婦を始めました。
気位が高く束縛されるのが嫌だったので、どこの組合にも所属せず一人気ままに街娼をしていました。その当時から中世の貴族が被るような大きな帽子、白いレースのドレス、白いレースの手袋に白い日傘がトレードマークでした。
人々はみんな彼女を「皇后陛下」と呼んでいました。
その後、1961年に横浜に辿り着いたそうです。
「皇后陛下」「白狐様」「クレオパトラ」「きんきらさん」とあちらこちらで噂されるようになりました。
「よこはま物語その24」で紹介した若葉町二丁目にあった伝説のお店「根岸屋」の入口にいつも立っていました。毎日たくさんの米兵がこのお店にやって来ていたので。
ここでも同業者の誰とも口も聞かず自由気ままに商売していました。
因みに根岸屋には様々な娼婦の方がいて、洋パンさんでも白人専門と黒人専門の方に分かれていたそうです。
またオシパンさんという口が聞けない方もいたそうです。
メリーさんは白人専門でした。

横浜に来た当時のメリーさん

横浜に来て暫く後のメリーさん
ベトナム戦争終結後、米兵がいなくなった後は、伊勢佐木町の松坂屋デパートや並びにあった喫茶店の森永ラブ、また新しくできたビルのエントランスでメリーさんをよく見かけるようになりました。

伊勢佐木町「横浜松坂屋」に入るメリーさん

お祭り好きだったメリーさん

僕が20歳頃に演奏していた福富町界隈でもよく会いました。特に1975年頃にできたGMビルのお店で演奏していた時は朝方メリーさんとよく会いました。その頃は「マリーさん」と呼ばれていた気がします。
GMビルのエレベーターの中にいて、お客様が来ると行き先階のボタンを押してあげて、チップをもらっていたこともありました。自分のスーツケースに座って寝てたりイスの上で寝てる姿をよく見たものです。
何故かメリーさんには気軽に声をかけられない雰囲気があり、畏怖の念を感じてました。

朝方GMビルの入口に立つメリーさん

GMビルの2階で仮眠するメリーさん

GMビル奥の通路で眠るメリーさん
その後、関内の方に新しいビルが増え始め、関内方面で見かける機会が増えてきました。
僕が28歳の時初めて就職したディベロッパーの会社が1985年南仲通三丁目に建てたエクセレントⅢでも、徹夜明けで帰る時、エントランスに座っているメリーさんとよく会いました。
その時もまだ畏怖の念を感じていたので、挨拶もできませんでした。
その頃にはもう「メリーさん」と呼ばれていた気がします。
そんなメリーさんにも親切に接してくれる方々がいらっしゃいました。
関内馬車道にあった「アート宝飾」の六川勝仁社長。
メリーさんはお店のエントランスにあるベンチでよく昼寝をしていました。女性社員から気持ち悪いとか他のお客様の迷惑になるとか言われても、メリーさんがいなくなるまで、長年ベンチを使わせてあげていました。
お中元とお歳暮には、メリーさんから必ずタオルが送られてきたそうです。

関内馬車道にあったアート宝飾本店

アート宝飾の六川勝仁社長

アート宝飾本店入口のベンチで仮眠するメリーさん

アート宝飾本店入口のベンチで休むメリーさん
同じく馬車道にあったレストラン「相生本店」の井上圓三社長。
レストラン横にできたティーサロン「new 相生」にメリーさんがお茶を飲みに来ると、他のお客様から同じカップは使いたくないというクレームが入るようになり、井上社長はメリーさん専用の素敵なカップを用意して、スタッフにも気持ちよく笑顔で接するように言い伝えました。
ここにもお中元とお歳暮には必ずメリーさんからタオルが送られてきたそうです。
因みにそのカップは今、五大路子さんが持っています。

関内馬車道にあったレストラン相生本店

相生の井上圓三社長

メリーさん専用のティーカップ
伊勢佐木町の化粧品店「柳屋」のオーナー福長美恵子さん。
資生堂の油分不使用の「練白粉」をメリーさんに薦めた方。
まだ若い頃、夜同業者に追われていたので、2階に匿い泊めてあげたそうです。メリーさんがカバンと袋に持ち物全部入れて持ち歩くようになったのは、一度全財産を盗まれたのが原因だと本人から聞きました。
ここにも毎年お中元とお歳暮の時期にはお土産を持ってご挨拶に来られたそうです。

メリーさんが化粧品すべてお世話になっていた1870年創業の柳屋。
今も伊勢佐木町一丁目、本屋有隣堂の向かいにあります。
福富町にあったクリーニング店「白新舎」オーナー山崎正直・きみ子夫妻。
メリーさんは自分の住まいがなかったので、お店の更衣室を貸してあげていました。服のクリーニングもずっとしてあげていました。
晩年疲れ果てたメリーさんを見るのが忍びなくなり、きみ子さんはメリーさんに郷里に帰ることを薦め、実家に電話をしてあげて、新幹線のチケットを購入し、駅まで送ってあげました。
1995年12月18日に帰郷する前日、メリーさんを泊めて初めていろいろ話をしました。「父君」「弟君」という呼び方やお礼の手紙の達筆さから家柄の良さが伺い知れたそうです。
その他、伊勢佐木町にあった美容室「ルナ」の湯田タツさん、野毛大道芸のマネージャー大久保文香さんもメリーさんと親しくお付き合いのある方々でした。
余談ですが、大久保さんがメリーさんから聞いた話だと、メリーさんから声をかける男性には条件があり、①メガネをかけている人=頭がいい人、②太っている人=お金がある人、③色黒の人=健康的な人だったそうです。

晩年のメリーさん
作家の山崎洋子さんは「天使はブルースを歌う」の中で、メリーさんを登場させています。
戦後、根岸外人墓地に埋められたといわれている800~900体もの「GIベイビー」と呼ばれた混血児を「メリーさんの子供たち」と表現しています。
山手外人墓地はエリート外国人の墓地ですが、根岸外人墓地は無名外国人の墓地です。身内の方が墓参りに来ない、置き去りにされた墓地です。
進駐軍に身を売っていたメリーさんは、進駐軍との間に生まれた混血児のお母さんの象徴だったのです。
素の自分を捨てて、常に別人に成りきって生きていかなければならなかった彼女にとって、あの白塗り化粧の仮面がどうしても必要だったと山崎さんは語っています。

山崎洋子さんのノンフィクション「天使はブルースを歌う」
1991年5月の「横浜開港記念みなと祭国際仮装行列」の審査員として出席していた女優の五大路子さんは、見物人のメリーさんが目に入り、一瞬で心を奪われました。
後日地元の方々、メリーさんをよく知る人から話を伺い、メリーさんのように戦中・戦後を生き抜いた何十万人もの女性の生き様を、日本の戦後史と重ね合わせて描きたいと思い、メリーさんの半生を舞台化する決意で初対面して、了承を得ました。
そして1996年関内ホールで第1回「横浜ローザ」という一人芝居を成功させ、今も続けています。

五大路子の一人芝居「横浜ローザ」

五大路子の一人芝居「横浜ローザ」
最後にメリーさんの大親友であったシャンソン歌手の永登元次郎さんをご紹介いたします。
1938年に台湾で生まれ、戦後神戸で育ち、中学卒業後に上京、仕事がない時期、元来同性愛者だったので、女装して男娼をしていました。
川崎の堀之内から横浜に来てゲイバーを開店。
ようやく少しゆとりができ、日本舞踊や長唄を習うようになりました。
その頃金子由香利のシャンソンに惹かれ、1982年から深緑夏代さんのもとでシャンソンを習い始めます。
そして念願のシャンソニエ「シャノアール」を日ノ出町駅前に開きました。

日ノ出町駅前にある「シャノアール」。
元次郎さんが亡くなった後もシャンソンだけでないライブレストランとして営業を続けています。
そして1991年8月6日、念願のリサイタルを馬車道の関内ホールで行う当日、入口に貼ってあるポスターを見ていたメリーさんに元次郎さんは招待券を渡しました。メリーさんの存在は知っていましたが、声をかけたのはその時が始めてだったそうです。芝居やコンサートも大好きなメリーさんは来てくれてました。
アンコール曲の前に、花束を持ってステージに集まってきたお客様達の後方にメリーさんがいて、プレゼントを元次郎さんに手渡してくれました。
その瞬間会場からは大きな拍手が沸き起こったのです。
それ以来、元次郎さんとメリーさんの交流は深まり、メリーさんに生活費の援助もするようになりました。
メリーさんは気位が高く、現金をなかなか受け取ってくれなかったようで、いろいろ工夫や演技がたいへんだったそうです。
ある日、大久保文香さんがメリーさんと話をしていると急に「私、部屋がほしいの」と弱気なことを言ってきたので、大久保さんは元次郎さんに相談しました。
元次郎さんは必死に行政に掛け合いましたが、住民票のないメリーさんは生活保護のサービスは一切受けられず、最後は山崎きみ子さんの説得で郷里の岡山県津山市に帰られました。
元次郎さんはメリーさんと伊勢佐木町のバーガーキングでよく食事をしました。
ある日メリーさんがつぶやくように「私はパンパンをやっていましてね」と言った時、頭がガーンとなったそうです。
元次郎さんは幼い頃、お母さんと妹さんとの3人暮らしで、お母さんは自分のものだと思っていたのに他の男性と同衾している所を見てしまい、「パンパン」と罵ってしまったのです。
その後家を飛び出しお母さん孝行ができなかったので、メリーさんを通してお母さんに対する贖罪をしていたように思います。
2001年、元次郎さんは入院中の病院から、体に鞭打って、津山市の老人ホームに慰問コンサートに行きます。
そこで初めて素顔のメリーさんと対面します。
元次郎さんは「マイウェイ(岩谷時子訳)」を唄いました。(元々この曲はフランスのシャンソンで、ポール・アンカの作曲ではありません。)
身も心も素の自分に戻ったメリーさんの笑顔は仏様のようでした。
そして元次郎さんの歌声は悲しいまでに美しく聴こえました。

シャンソン歌手 永登元次郎さんは2004年3月 66歳で亡くなりました。

元次郎さんの歌に聴き入るメリーさん

コンサート後の元次郎さんとメリーさん
後を追うようにメリーさんも2005年1月に亡くなりました。
本名「西岡雪子」として。
このお二人が亡くなった後、中村高寛監督のドキュメンタリー映画「ヨコハマメリー」が2006年4月に公開になりました。僕が書いた内容はほとんど「ヨコハマメリー」からの引用です。
この映画は大好きで何回も観ました。横浜にとってメリーさんがいかに大きな存在だったか、まさに戦後横浜の象徴であったことが、改めてわかりました。
メリーさんとは一回も話せずに終わってしまったこと、本当に不甲斐ない気持ちでいっぱいです。
まだの方は是非一度ご覧になってみてください。必見です!


明治期の伊勢佐木町
伊勢佐木町の地名は、1874年(明治7年)道路改修費用を寄付した伊勢屋中村次郎衛、佐川儀右衛門、佐々木新五郎の屋号・苗字の一部を組み合わせてできたそうです。もちろん諸説ありますが・・・
前年の明治6年から伊勢佐木町では興行場が開かれ、大相撲も催される興行街となり、芝居小屋、寄席などが続々と集まり、1880年(明治13年)には観世物興行場として指定されました。
そして1882年(明治15年)に遊郭が高島町から真金町に再々移転したため、伊勢佐木町は関内から遊郭への通り道となり、大正初期には東京・浅草、大阪・千日前と並ぶ大繁華街へと発展していきました。
この頃、「ザキブラ」「イセブラ」なる言葉も生まれました。

大正中期の伊勢佐木町
伊勢佐木町三丁目あたりはその当時賑町といわれ、両国座・勇座・賑座などの芝居小屋が軒を連ね、伊勢佐木町の中でも一番の繁華街になっていました。
両国座は再建後名前を喜楽座に変え再開しますが、関東大震災で再び焼失。翌年の再建後、再び元の賑わいを取り戻します。
1925年(大正14年)には日本で初めてジャズの演奏が、この喜楽座で行われました。松旭斎天勝(しょうきょくさいてんかつ)率いる天勝一座で、ガーシュインの曲などを演奏した記録が残っています。
喜楽座のちょうど向かい側に、1911年(明治44年)12月、ドイツ人貿易商のリヒァルド・ウェルデルマン氏が日本で最初の洋画封切館である「オデヲン座」を開館しました。
関東大震災で壊滅的な被害を受けましたが、翌年には興行を再開。昭和初期、伊勢佐木町は映画の街として復興し、大繁華街の賑わいが戻ってきました。
当時はまだほとんどが無声映画でしたので、映画に合わせた伴奏をする楽団も重要で、特にオデヲン座の楽団は上手でとても人気が高かったそうです。そういう楽団から後の横浜を代表するナイトクラブやグランドキャバレーの楽団へと繋がっていったのです。

1936年(昭和11年)、定員1,245人の大劇場に改築された「オデヲン座」
しかし、太平洋戦争が始まると欧米映画の輸入が厳しく規制され、洋画専門館は大きな打撃を受けます。
そして1945年(昭和20年)5月29日の横浜大空襲でほとんどの建物は倒壊してしまいましたが、オデヲン座は無事でした。終戦後は進駐軍に接収され、「オクタゴンシアター」として約10年間運営されました。

進駐軍に接収され「OCTAGON THEATER」になったオデヲン座
仕方なく、オデヲン座の経営者であったクラリネット奏者の六崎市之介氏は、1947年(昭和22年)、曙町に「横浜オデヲン座」を新設しました。

横浜オデヲン座ニュース ケイン号の反乱

横浜オデヲン座ニュース 真夜中の愛情
1955年11月の接収解除後、残念ながら六崎氏は買戻しができず、松竹映画封切館の「横浜松竹映画劇場」になってしまいました。その後、「横浜ロキシー劇場」と改称され、1973年2月に閉館されました。
現在は全館ドン・キホーテになっております。
昭和30年代には伊勢佐木町周辺に約40もの映画館が建ち並び、当時、日本一映画館の多い街となりました。
その代表的な映画館をいくつかご紹介いたしましょう。

長者町6丁目の交差点にあった「横浜ピカデリー」
1947年に「横浜松竹映劇」として開館。前述のオデヲン座の建物に1955年「横浜松竹映画劇場」として移転した後、洋画専門の「ピカデリーシネマ」そして「横浜ピカデリー」となりました。1998年閉館。

日ノ出町駅そば 宮川町2丁目にあった「かもめ座」
1952年に開館し、2002年2月に閉館してしまいました。2~3本立ての名画専門館でした。

若葉町3丁目にあった「日劇」
1953年に開館。2~3本立ての洋画専門館でした。2005年2月閉館。

日劇のとなりにあった「名画座」
1952年に開館。2~3本立ての邦画専門館でした。

洋画は日劇、邦画は名画座という名文句が生まれました。

名画座が「ジャック&ベティ」として生まれ変わりました。
1991年に名画座は大幅リニューアルを行い「ジャック&ベティ」になりました。
日劇と同じ経営者でしたので、2005年2月、閉館になりそうでしたが、経営母体も変わり、「黄金町プロジェクト」のバックアップもあり、現在も興行が続けられております。
「ジャック」と「ベティ」の2つのスクリーンで洋画・邦画のロードショーを上映。

長者町6丁目にある「横浜シネマリン」
ここは1955年に吉本興業が開業した「横浜花月劇場」が前身で、その後1964年に「伊勢佐木シネマ」という名称の映画館になり、1989年「横浜シネマリン」になりました。2014年に休館になりましたが、閉館のピンチを救ったのはなんと一映画ファンの八幡温子さんでした。その年の12月、八幡さんが私財を投入して館内を大リニューアル。見事復活したのです!
今でも名画専門館として運営を続けています。
八幡さんは現在横浜キネマ倶楽部の事務局長をされております。

1947年 日ノ出町駅そばの宮川町2丁目に開館した「光音座」
1947年1月に東宝と新東宝の上映館として開館しましたが、1950年後半から経営会社の大蔵映画が成人映画を自社で製作するようになり、今では日本で唯一といっていいゲイポルノの上映館となっています。
光音座1がゲイポルノ、光音座2がピンク映画専門です。
1989年の改装工事の時に、入口を野毛大通りの横道に移しました。

改装後の「横浜光音座」
1と2はロビーで繋がっていますが、カウンター・券売機を挟み、男湯・女湯のような構造になっており、行き来はできません。因みに1は女性の入場お断わりです。
現在も元気に興行を続けております。

光音座の斜め向かい側JRAウインズ横浜のある場所に、1947年(昭和22年)3月に戦後初の市民劇場「マッカーサー劇場」がオープン。その年の5月には隣に「横浜国際劇場」がオープンしました。どちらも1,200人以上入れる大ホールでした。
映画も演劇もコンサートも開催され、連日超満員だったそうです。
横浜国際劇場は、美空ひばりが昭和23年3月8日10才の時、伴淳三郎座長の「東京グループ」の一員として出演した劇場です
淡谷のり子の前座として、笠置シズ子の「東京ブギウギ」を歌って踊って、一躍脚光を浴びました。
その劇場の向かい側に美空ひばりがデビューした頃から通っていた「松葉寿し」が今でもあります。
ここの店主の働きかけで、お店の前に美空ひばり像が建っています。

野毛大通り沿い「松葉寿し」入口にある美空ひばり像

伊勢佐木町4丁目のイセザキモールにある伊勢佐木町ブルース歌碑
1968年(昭和43年)に青江三奈が歌った「伊勢佐木町ブルース」が大ヒットしました。
青江三奈はブルースの女王になり、伊勢佐木町の名誉会員にもなりました。
その青江三奈は2000年に59歳の若さで亡くなられ、その歌碑と彼女を描いた大きな看板が2001年に設置されました。看板は有志の方々で数年に一度描きかえられています。

横浜で一番活気があった1960年代の伊勢佐木町一丁目入口
映画と芝居と音楽の街そして横浜一活気ある街、伊勢佐木町はもう遠い昔の話かもしれません。
横浜を愛し有名にしてくれた美空ひばりも青江三奈も、そして伊勢佐木町ブルースと同じ年のクリスマスにリリースされ、横浜を最も有名たらしめた名曲「ブルー・ライト・ヨコハマ」のいしだあゆみももういません。
友達には内緒でしたが、中学生の時いしだあゆみの大ファンでした。

ブルーライトヨコハマ画像
僕が生まれ育った横浜の残り香が感じられる場所もだんだん少なくなってきました・・・
よこはま物語その25で紹介いたしました、横浜が誇る名物料理「牛鍋」に勝るとも劣らない名物ソウルフードが「タンメン」です。

「横濱一品香」のタンメン
タンメン発祥のお店と言われているのが、「横濱一品香」です。
1955年、田代武雄氏が野毛で3坪にカウンター9席の中華料理店を開店。「一品一品に誠意を込めて最高の香味を」との思いで、「一品香」と名付けたそうです。
満州から引き揚げてきた料理人が作った現地の家庭料理「湯麺(タンミェン)」を食べて、アレンジしたものが「タンメン」となりました。
細かく切ったニンニクを叩いて炒め、そこに豚バラとモヤシ、白菜、韮、木耳、人参、玉ネギ等の野菜を入れて炒め、鶏ガラ主体(豚ガラも)のスープを塩味で仕立てます。
出来上がったスープに断面が四角い(平たい)茹でた太麺を入れ、炒めた具材を乗せれば完成。あっさりしてますが、なんともいえない深い味わいのある中華そばです。

深みのあるスープと野菜の炒め具合が絶品!

中区福富町の清正公通りにあった「横濱一品香」
夜のお店で演奏していた20代の頃によく行った福富町の一品香です。ここは1965年にできましたが、2018年2月に閉店してしまいました。でも一品香には親子代々の根強いファンがいますので、現在も横浜・川崎で12店舗営業していますよ!

ちぇるる野毛1階にある「大来」
もう一つのタンメン有名店が「大来」です。
1968年から野毛の場外馬券場(ウインズ横浜)あたりで営業していましたが、火事で焼失してしまい、ちぇるる野毛の1階に1983年移転してきました。
ここのタンメンの味は一品香に似てますが、一品香より野菜がシャキシャキした感じです。

大来のタンメン

ここの麺も断面が四角い(平たい)太麺です。

野毛大通り沿いにあった「三幸苑」
もう一つタンメンの有名店があります。それが「三幸苑」です。
写真のお店は、1963年創業当時から野毛大通り沿いにありましたが、店主の小川さんがご高齢のため、2016年12月に閉店してしまいました。
しかし、元従業員の女性とその息子さん達が是非お店を引き継ぎたいと小川さんにお願いして、2017年1月、ちぇるる野毛の交差点から野毛山動物園に向う坂道の途中に再オープンしたのです!

現在の「三幸苑」

三幸苑のタンメン
ここのタンメンは具材をスープと一緒に煮込むので、野菜のシャキシャキ感はないですが、野菜の旨味がスープに溶け込んでいる感じが絶品です。
ただ、一品香や大来に比べてスープは少し脂っぽい感じです。
創業者の小川さんが作っていた頃はそんなに脂っぽくなかったんですが・・・

ここも断面が四角い(平たい)太麺です。

伊勢佐木町5丁目にある「玉泉亭」
実はタンメンよりも歴史が古い横浜のもう一つのソウルフードがあります。それが「サンマーメン」です。魚のさんまが入っているわけではありませんよ!
タンメンのスープは塩味ですが、サンマーメンは醤油ベースのスープです。具材はタンメンと同じですが、炒めたら片栗粉でとろみをつけます。麺は細麺です。
中国語で「生馬麺」と書きます。生(サン)は新鮮でシャキシャキという意味、馬(マ)は上に乗せるという意味です。
その発祥のお店が伊勢佐木町5丁目にある「玉泉亭」です。

創業当時の「玉泉亭」

元総理大臣 田中角栄氏と握手する二代目の井田辰雄氏
玉泉亭は1918年(大正7年)、曙町に誕生しました。
創業者は井田小三郎氏。そして二代目の井田辰雄氏が昭和22年頃、サンマーメンを考案したそうです。
現在は三代目の井田武雄氏が店主です。
先程の一品香、大来、三幸苑をはじめ横浜の中華そば屋さんには必ずサンマーメンはメニューにありますが、何と言っても玉泉亭のサンマーメンが最高に美味しいと思います。
あっさりですが深みのあるスープは全部飲み干したくなりますよ!
ここに来るお客さんの8割以上の方がサンマーメンを注文するほどです。僕も月に1回はここでサンマーメンを食べます。
本当はもっと来たいのですが、大来や三幸苑のタンメンも大好きなので。
それに以前紹介した黄金町のTAKEYAと野毛のセンターグリルのナポリタンも大好きなので、困ってしまいます。

「玉泉亭」のサンマーメン

麺は細麺です。
スープはかなり熱いので、猫舌の人はお気を付けください!
【横浜三塔物語】
横浜三塔とは、神奈川県庁の塔「キング」、横浜税関の塔「クイーン」、横浜市開港記念会館の塔「ジャック」のことで、昭和初期に外国船員がトランプのカードに見立てて呼んだことが由来と言われています。

神奈川県庁本庁舎「キング」の塔

横浜税関「クイーン」の塔

横浜市開港記念会館「ジャック」の塔
神奈川県庁本庁舎の「キング」は五重塔をイメージさせるスタイルで、昭和初期に流行した帝冠様式(洋式建築に和風の屋根を冠したデザインが特徴)のはしりと言われています。
また、表面に溝を刻んだ茶褐色のタイルと、幾何学的な装飾模様が特色のライト様式(旧帝国ホテルなどを設計した巨匠フランク・ロイド・ライトによる建築様式)が威厳と風格を醸し出しています(1928年竣工)。
横浜税関の「クイーン」はイスラム寺院風のエキゾチックなドームが特徴です。
塔の屋根は銅板一文字葺きで、元々赤銅色でしたが数十年を経て緑青色になりました。
創建当時、塔屋の外部には大きな白熱灯が8個設置され、ライトアップのない時代、長い航海をしてきた外航船の船員たちに魅力的な港横浜を演出していました。
また、正面玄関のアーチの円柱はインド古代風、アーチ周りの装飾はムーリッシュ風(北アフリカのムーア人居住地のイスラム建築様式で、スペインのアンダルシア地方で発達)、ねじり柱はクラシック風で、床は市松模様という、税関という国際的な性格に相応しいエントランスです(1934年竣工)。
横浜市開港記念会館の「ジャック」は東南隅の時計塔のことで、日本銀行本店や東京駅丸の内駅舎の設計で有名な明治の建築家、辰野金吾氏が開発した辰野式フリークラシック様式(赤煉瓦に花崗岩を取り交ぜたルネッサンス風の様式)の代表作の一つ。
横浜開港50周年を記念して「開港記念横浜会館」の名称で1917年に竣工されました。
神奈川県庁本庁舎も横浜税関も1923年の関東大震災で全倒壊焼失し、新しく建て直されました。
しかし開港記念横浜会館は、内部は焼失、屋根ドーム群も欠落しましたが、時計塔と壁体は辛うじて無事でした。

関東大震災直後の開港記念横浜会館
1927年に震災復旧工事が竣工しましたが、西南隅の八角ドームと西北隅の角ドームは復元されませんでした。
1945年から1958年まで進駐軍兵士向けの映画上映館「メモリアルホール」になっていましたが、1959年に中区の公会堂となり、名称は「横浜市開港記念会館」となりました。
その後、1985年に創建時の設計図が発見され、1988年からドームの復元工事が行われました。
そして1989年、大正時代そのままの姿に蘇ったのです!

横浜市開港記念会館の復元された西南隅の八角ドーム
今でも中区の公会堂として会議室及び講堂は一般利用できる施設となっています。
特に講堂は480人ほど収容できる2階席もあるホールで、コンサートや演劇や結婚式に利用されています。
国の重要文化財ですが、利用料はビックリするくらい安いですよ!

横浜市開港記念会館の講堂

横浜市開港記念会館2階ロビーのステンドグラス
いつしか多くの船員たちは船上からこの三塔を目印に入港したと言われています。
横浜三塔は震災や戦争などの苦難を乗り越えて今も建ち続けていることから、困難に打ち勝つシンボル的存在になり、この三塔を一度に見れる場所3か所を1日で巡ると願いが叶うという伝説が「横浜三塔物語」と呼ばれるようになりました。
その3か所とは「日本大通り」と「赤レンガパーク」と「大さん橋」にあります。
この3つのスポットには目印が設けられていますので、是非探してみてください。また、毎年3月10日は「三塔の日」として横浜三塔物語にちなんだイベントも開催されています。
ロマンチックな夜に巡ると結婚前のカップルは結ばれるという噂もありますよ!

キングの夜景

クイーンの夜景

ジャックの夜景
